2016年8月6日土曜日

追加職業パックその2「教授・学者」「科学者・技術者」「学生」+おまけ

※現在策定中のためこれらのデータは変更される場合があります。最終更新日2017年1月10日

◎教授・学者
階級:ミドル、アッパーミドル
【概要】
 この職業には学問に携わる広範な職業が含まれる。考えられるものとしては大学教授、学芸員、パブリックスクールの教師などが挙げられる。
 19世紀に英国の大学は爆発的に増加した。それまでイギリス(ブリテン諸島)には7つの大学があるのみだった。19世紀に設立された大学としてはダラム大学やロンドン大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなどが知られる。
 学芸員は美術館、博物館職員を指す。ロンドン市内には大英博物館やナショナル・ギャラリーなどの多くの博物館、美術館が存在している。探索者は館長であったり、理事となるような重要な役職を引き受けている場合も考えられるだろう。
 パブリックスクールは上流階級の子息がラテン語や古代ギリシア語等について学ぶ名門私立校である。ヴィクトリア時代、法的にパブリックスクールと呼ばれる学校は9校あり「ザ・ナイン」と呼ばれた。
 探索者の中には仕事にあぶれたアカデミックな人々もいるかもしれない。そのような人々は良家の子息の個人指導教師(tutor)や個人教授という収入の不安定な職業についていた。例えば、夏目漱石はロンドン留学中(1900~1902年)にウィリアム・クレイグというシェイクスピア研究家から個人教授を受けている。クレイグは、元アベリスティス大学の教授であったが、大学の経済的苦境からか解雇され、その後、漱石らに1回5シリングで授業を行っていたとのことである。
 ヴィクトリア朝時代において女性は感情的と捉えられ、研究の世界から遠ざけられていた。しかし、ごく少数であるが女性の研究者もいた。1839年に設立された英国植物学会はその設立当初から女性の会員を認めている。これは植物を描く、育てる、その効能を知ることはレディのたしなみでもあったからである。
技能:≪図書館≫≪説得≫≪古代ギリシア語≫≪ラテン語≫≪他の言語≫ 専門とする学問を任意の数

◎科学者・技術者
階級:ミドル、アッパーミドル
【概要】
この職業に分類されるものとしては科学者、発明家、技術者、建築家などが考えられる。彼らの専門分野は生物、建築、天文、航空、軍事など広範に及ぶ。
 ヴィクトリア時代は科学が体系化しただけでなく、科学そのものが目覚ましい発展を遂げていた。ヴィクトリア時代の科学者として著名な人物として電気分野で多大な功績を遺したマイケル・ファラデー(1791~1867年)や進化論のチャールズ・ダーウィン(1809~1892年)が挙げられる。
 19世紀に発明されたものとしては鉄道、飛行船、電話、シネマトグラフ、電球などが挙げられる。これら、画期的発明の数々は人々の生活を豊かなものとした。
 また同時代の技術者としては日本において知名度は低いがイザム・キングバード・ブルネル(1806~1859年)が挙げられる。彼の一番の功績は大西洋横断電信ケーブルの敷設である。これによりアメリカ大陸とイギリスの間で通信が可能となった。彼は現在でもイギリスで最も偉大な人物の一人に数えられる。
 探索者の専門とする分野によっては政府をはじめ、各界の有力者から援助を受けているかもしれない。
技能:≪製作≫≪歴史≫≪図書館≫≪機械修理≫≪説得≫≪目星≫ 専門とする分野を最大6つ

◎学生
階級:ミドル、アッパーミドル、アッパー
【概要】
 この職業は主としてパブリックスクール、もしくは大学の学生を指す。そのため彼らの階級は彼らの家の所属する階級に左右されるだろう。年収については収入ロールの半分の値とする。
 パブリックスクールは13歳から18歳の上流階級の子息にジェントルマンとなる教育を施した名門寄宿学校である。パブリックスクールの卒業者は基本的にケンブリッジ大学、オックスフォード大学へと進学する。オックスブリッジと称される両大学からは未来の首相や貴族、地方紳士、聖職者、弁護士、医師など正真正銘のジェントルマンが世に送り出された。
 大学の門戸は上流階級にしか開かれていなかったわけではない。例えば1836年に設立されたロンドン大学はパブリックスクール出身者以外も入学することができた。また、ロンドン大学には女性の学生も在籍していた。
 学生はイギリス人に限られた話ではない。19世紀には植民地や他国から留学に来る人も多かった。例えばインド独立の指導者として知られるガンディーは1890年代初めにロンドンで法学を学んでいる。日本からも夏目漱石や東郷平八郎がヴィクトリア朝期にイギリスに留学している。
パブリックスクールは上流階級の子息をジェントルマンとする教育機関であるがレディを育成する機関も存在した。フィニッシングスクールと呼ばれる寄宿学校のことである。これは良家の子女が社交界デビューに備えるために入学した学校で教養、エチケット、社交スキル、外国語などを教育した。そのためフィニッシングスクールに在籍する探索者であれば技能欄の≪ラテン語≫を≪フランス語≫に変更しなくてはならない。
技能:≪信用≫≪図書館≫≪母国語≫≪ラテン語(フランス語)≫≪他の言語≫≪説得≫≪聞き耳≫≪乗馬≫ 個人的な興味2つ、専門とする分野1つ


おまけ:ヴィクトリア朝の教育、教養に関する事柄

○パブリックスクール
 未来の英国を支配するエリートたちを養成する寄宿学校で13歳から18歳までのジェントルマンの卵たちが在籍した。教育内容はラテン語、ギリシア語などの古典的なものであった。週20時間の授業の内17時間は古典語の授業とされた。授業では文法を学んだり、キケロの暗唱などを行ったそうだがこれらは生徒たちにとって退屈なものだったようだ。
 精神教育も重視されており礼拝、スポーツが盛んにおこなわれた。フットボールとラグビーの成文化されたルールがパブリックスクールから生まれたのはその証拠と言えよう。ワーテルローでナポレオンに勝利した初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーは「ワーテルローに勝利できたのはイートン校の運動場のおかげ」と言ったと伝えられている。
※実際にはモンタランベールなるフランス人の“C'est ici qu'a ete gagnée la bataille de Waterloo.”が変形したものらしい。
そのようなスポーツ教育はフェアプレイの精神をジェントルマンの共通理念として根付いた。イギリス人を語るうえでフェアプレイの精神は非常に重要なものと言える。ことに上流階級はフェアプレイを重要視し様々な場面で引き合いに出す。
 文武両道に秀でた最も優秀な最上級生は監督生(Prefect)となり下級生の指導を行った。このことからもわかるがパブリックスクールは上下関係の非常に厳しい世界で上級生と下級生の待遇には大きな差があった。ジェントルマンを育成する上で上下規律は重要であるとも考えられていた。
 パブリックスクールは男性のみの空間であった。その環境ゆえに同性愛は珍しいものではなかった。しかし、ヴィクトリア朝において同性愛は口に出すのも憚られる罪であった。
【主なパブリックスクール(ザ・ナイン)】
イートン校、ハーロー校、ラグビー校、ウェストミンスター校、ウィンチェスター校、マーチャント・テイラーズ校、セントポールズ校、ジュールズベリー校、チャーターハウス校

○女性と教養
 フィニッシングスクールの女性であれば≪ラテン語≫を≪フランス語≫に変換するよう記したがこれには女性とその教養への時代感が現れている。ラテン語や古代ギリシア語といった古典語は学問的な言語であり、これらを解する女性は生意気であるとされたためである。古典は男性のものであると考えられていたのだ。例え聖書であっても女性が引用する際は細心の注意を払う必要があった。インテリすぎる女性は貰い手がいないと階級を問わず考えられていたのである。
 女性に求められていた教養は家政のみであった。事実初等から高等に至るまで私立学校では良き妻となる教育を重視していたし、そのような授業には国から補助金が支給された。

○下層階級と教育
 1870年国によって公立小学校が設立されたことで下層階級にも教育の機会が与えられた。授業料は無料で全国統一のカリキュラムで教育が施された。この教育は成功をおさめ90年代には識字率が90パーセントを上回っている。他にも下層階級向けの教育機関としては使用人養成学校のような職業訓練校も存在していた。

2016年8月5日金曜日

追加職業パックその1「医師」「看護婦」「精神科医」+おまけ

※現在策定中のためこれらは変更される可能性があります。最終更新日8月6日


◎医師
階級:アッパーミドル
【概要】
 医師は内科、外科をはじめ幾枝にも分岐する専門的医療を生業とする人々を指す。医師は基本的に自宅兼診療所を有しているが、藪医者などであれば話は別であろう。腕利きの開業医たちは、ロンドンはメリルボーンにあるハーレーストリートに居を構えている。しかし、他の地域や郷里へ戻って開業する医師が大半であった。医師の中には船医や軍医なども含まれる。彼らの多くは開業する資金のない者で、資金集めのために仕事をしている場合が多かった。シャーロック・ホームズの相棒J.H.ワトソンもイングランドで診療所を開業する以前は、第二次アフガン戦争に軍医として従軍していた。ちなみに、ごく少数であるが女医も当時存在した。
 19世紀初めは内科医が医師の頂点とされ、次に外科医が位置付けられていた。内科医であることは、ジェントルマンであることを意味していたと言っても過言でない。なお、技能欄にある≪ラテン語≫は主に内科医の技能であった。これは内科医となるためにギリシアのヒポクラテスから18世紀に至るまでの医術書を理解する必要があったためである。外科において、先進的な研究がなされていたのはスコットランドのエディンバラとフランスのパリだった。そのためPCが外科医であるならラテン語をフランス語と入れ替えても問題ない。ヴィクトリア朝後半にはこの両科の不合理な区別に抵抗した医師が増えた。彼らは一般開業医(General Practitioner)と呼ばれ次第に影響力を増していった。ちなみに階級の最下位とされたのが薬剤師で医師がいない地域や低所得者の医療を担っていた。
技能:≪生物学≫≪信用≫≪応急手当≫≪ラテン語≫≪図書館≫≪医学≫≪薬学≫≪心理学≫個人的な関心2つ

◎看護婦
階級:ロワーミドル
【概要】
近代職業看護婦の歴史はヴィクトリア朝中期フローレンス・ナイチンゲールにはじまる。彼女はクリミア戦争(1853年~1856年)に従軍し、傷病兵の看護を行った。1860年にはフローレンス・ナイチンゲール看護学校が聖トーマス病院で設立される。その後各地でこれをモデルにした看護学校が次々に設立された。看護婦はヴィクトリア朝において女性がなることのできた数少ない職業の一つであろう。次第に彼女らは医療現場において無くてはならない存在となっていった。
技能:≪生物学≫≪医学≫≪応急手当≫≪薬学≫≪ほかの言語≫≪精神分析≫≪経理≫≪目星≫個人的な関心1つ

◎精神科医
階級:ミドル、アッパーミドル
【概要】
 精神医学という言葉が生まれたのは19世紀の初頭のことであった。ヴィクトリア朝中期、精神科医は『マッド・ドクター』や『エイリアニスト』と呼称されていた。
 19世紀中期、狂気は遺伝によって引き起こされると考えられていた。当時の医学では、狂気は母親から遺伝しやすく、娘に影響する場合が多いと考えられていた。これはヴィクトリア朝において、女性の多くがヒステリーであったことに由来する。実際に、この時代の5割以上、文献によっては7割の女性がヒステリーを抱えていたとされる。なお、1890年には女性のヒステリーを治療するために、電動バイブレーターが発明され特許を取得している。これは性欲は男性だけのものと考えられ、女性に過度な禁欲主義が浸透していたことが原因ではないかとされている。
 19世紀末期、ウィーンのジークムント・フロイトによって精神分析が確立される。先進的な考えを持つキャラクターであれば、彼と関係があるか、もしくは彼の論文を読んでいるかもしれない。
 この時代の精神病患者の治療法は薬品投与、催眠療法、精神分析であった。また、精神病患者は、人里離れた隔離施設に閉じ込められた。口封じのために、隔離施設に不当に閉じ込められる事例などは通俗小説で時々登場した。
技能:≪医学≫≪ドイツ語≫≪精神分析≫≪心理学≫≪説得≫≪図書館≫≪薬学≫個人的な関心1つ


おまけ:ヴィクトリア朝の病

【19世紀の英国において恐れられた、流行した病気】

マラリア
熱帯の病気と思われがちであるが少なくとも19世紀中ごろまで英国にも独自に存在していた。蚊によって媒介されるためリンカンシャーやケンブリッジシャーの沼地で流行した。下水が整備されたことでマラリアは英国から姿を消すが植民地で罹患する人間はその後も続出した。マラリアに感染した場合、専門的医療を受けられない人々は薬剤師からキニーネを購入していた。

脳卒中
脳卒中の犠牲者は突然倒れ、意識を失いその結果死に至ったり、回復しても麻痺が残ったりする。脳卒中はこの時代高血圧や過労、特に感情の高ぶりと結びつけて考えられていた。

コレラ
ロンドンの下水が未処理でテムズ川へと流出していた時代、コレラは飲み水から感染していた。嘔吐、下痢を主症状とするコレラはアジア由来で1830年代までヨーロッパで発生しなかった。コレラは貧民街での爆発的感染が起きたことから体制の陰謀ではと考える人間までいた。ロンドンでは数度コレラの大流行が発生している。ロンドンでは1854年に猛威を振るった。その後も1866年などにも発生している。島国であるイギリスは19世紀後半はコレラの被害を大きく受けていないが大陸部では時々大流行した。

肺結核
空気や傷口から感染し長時間潜伏の後、体力の「消耗」を引き起こした。この病で目がぎらつき、興奮状態になり、そこから類まれな創作活動が引き起こされることがある。そのためヴィクトリア朝でこの病は芸術的才能や想像性と関係があると一般に考えられた。19世紀にもっともイギリス人を殺した病気であると考えられている。

消化不良
保存状態の悪いものは別として十分に咀嚼しない場合や食べ過ぎで引き起こされた。飽食の時代を表す病気の一つであろう。

チフス
ヒトジラミによって感染する。虚妄、頭痛、発疹、高熱などが起こる。ナポレオンはロシアから撤退の際に多くの兵士をこの病に奪われた。2週間以内に死に至らなければたいていの場合生存した。チフス菌によって発祥する腸チフスという別の病気がある。これはヴィクトリア女王の夫アルバート殿下を若くして死に至らしめた。

黄熱病
日本では野口英世で有名な病である黄熱病は熱帯地方の病である。重度の場合黄疸が起こるためこの名で呼ばれる。その場合は腎不全、肝不全を起こし死に至る。軽度の場合はインフルエンザに似ている。その多くは港湾や船内で発生したため黄熱病患者を乗せた船は黄色い旗を掲げる義務があった。そこからこの時代イエロージャックと渾名されていた。

【病気に付随するいくつかの興味深い事例】
・ヴィクトリア朝の人々は湿気をしばしば病気の要因と考えていた。
・1875年細菌の存在が証明される。それまで空気中の瘴気が伝染の原因と考えられていた。
・19世紀、輸血は何度か試みられたが血液型の概念が存在せず多くは失敗に終わった。
・ヴィクトリア朝においてアヘンチンキは万能薬のように使用されていた。
 これは大人子供問わずであり薬剤師や雑貨屋からかなりの低価格で購入できた。
 もちろん警鐘を鳴らす人間や法的規制も存在したが意味をなさなかった。
・ヴィクトリア時代であっても精神病による減刑は存在していた。
 タイムズ紙の1853年の論説は当時の精神病減刑を考えるうえで興味深い。
  
正気と精神錯乱の境界を画一する一線ほど、かすかにしか定義できないものはなさそうだ......あまりに狭義にしてしまっては意味がない。かといって定義の幅を広げすぎると、人類全体がその網に引っ掛かってしまう。厳密にいうなら、情熱、偏見、悪徳、虚栄に負けるときの我々は皆頭がおかしくなっているのだ。だからと言って、情熱的で偏見を持った虚栄心の強い人間が皆精神病院に閉じ込められるとしたら、誰がその精神病院の鍵を預かればいいのだろう?