2017年2月28日火曜日

ブリテン小史:古代から1066年以前まで

今回から数回に分けてイギリスの簡単な歴史を紹介していこうと思っています。第一回として古代から1066年以前にかけての大まかな流れを紹介していこうかと思います。イギリスは古代から中世にかけて多くの民族が侵略・定住を繰り返しました。現在のマジョリティであるアングロ・サクソン人も現在のデンマークやドイツに起源をもつ人々なのです。1066年という微妙な年を前に一区切りつけるのはこの年にイギリス史上最も重大と言っては過言ではない事件が起きた年であるからです。

≪古代≫
グレートブリテン島には旧石器時代以前から人類が居住していたそうです。この人たちによってストーンヘンジが作られたと目されています。
さて、ブリテン島にやって来た初めての侵略者はケルト人でした。彼らは前9世紀以後にヨーロッパから侵入しました。このケルト系の人々は現在のスコットランド、ウェールズ、アイルランドの人々の先祖に当たります。ケルト系の人々はローマ人にブリトン人と呼ばれました。これがイングランド、ウェールズ、スコットランドを含む島を示すブリテンの由来です。
ブリテン島に次にやって来たのはローマ帝国です。一世紀中ごろにローマ帝国はブリテン島の南部を征服しブリタンニア属州を打ち立てました。ちなみにロンドンはローマ人によって作られた都市で当時はロンディニウムと呼ばれていました。このローマ人が築いた1マイル(約1.6㎞)四方ほどの都市は現在のシティ・オブ・ロンドンに相当します。ローマによる支配はおよそ400年間続きました。その際に五賢帝(ローマ絶世期の5人の皇帝)の一人ハドリアヌスによって築かれた長城は現在のイングランドとスコットランドの境界となりました。
ハドリアヌスの長城
北方のケルト人の侵入を阻んだ
375年フン族に圧迫されたゲルマン人たちがローマ帝国へと次々に侵入、各地で襲撃略奪を始めます。410年ついに本国防衛のためローマ人はブリタンニアを放棄し撤退しました。ブリテン島は再びケルト人の支配する島となります。

≪中世≫
ケルト人の支配は長く続きませんでした。現在のデンマークや北部ドイツにあたる地域からアングロ・サクソンと呼ばれるゲルマン系の人々が侵入します。アングロ・サクソンは3つのゲルマン民族の総称でその一部族アングル人はイングランドの語源となりました。アングロ・サクソン人はイングランド各地に小さな王国を建国しました。7つの大国があったことからこの時代は七王国時代と呼ばれました。
七王国はヘプターキー(七王国を意味するギリシア語)とも呼ばれた
ちなみに実在は定かでありませんがアーサー王はこのゲルマン人の侵入に対抗したブリトン人の王という説もあります。彼の実在はともかくケルト人はイングランドから駆逐され現在のスコットランド、ウェールズ、アイルランドへと逃れていきました。英語に残るケルト由来の単語の少なさからもこの2つの民族が友好的関係ではなかったことが読み取れます。アングロ・サクソン人はローマ時代に始まったキリスト教の伝統を一度は破壊しましたが次第に受容していきました。
七王国時代は9世紀、ウェセックス王国のエグバード王がイングランドを統一したことで終わりを迎えます。統一されてもイングランドに平穏は訪れませんでした。9世紀の中ごろから北欧のヴァイキングたちがブリテン島を襲撃はじめます。一度は統一されたイングランドですがヴァイキングの一派、デーン人によってウェセックスを除き占領されてしまいます。しかしウェセックスのアルフレッド大王によりデーン人は押し返され、ロンドンとチェスターを結ぶ線が国境に定められます。
黄色い部分がデーン人の居住地、後にデーンロウ地方と呼ばれる。
しかし、両者の関係が安定することはなく1016年にデンマーク王のクヌートがイングランドの王位を手に入れデンマーク、ノルウェー、イングランドを同君連合国(複数の国が一人の王を戴くこと、現在のイギリスは北アイルランド、スコットランド、ウェールズ、イングランドがエリザベス2世という一人の女王を戴く同君連合国である。)としますが彼の死後帝国は崩壊しました。デーン人の支配は終わりましたが北イングランドでは以後もデーン人の慣習法が用いられていたためデーンロウ地方と呼ばれました。その後50年ほどアングロサクソン人の王国がイングランドに復活しますがすべては1066年の大事件によって一変します。

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