2017年2月28日火曜日

ブリテン小史:古代から1066年以前まで

今回から数回に分けてイギリスの簡単な歴史を紹介していこうと思っています。第一回として古代から1066年以前にかけての大まかな流れを紹介していこうかと思います。イギリスは古代から中世にかけて多くの民族が侵略・定住を繰り返しました。現在のマジョリティであるアングロ・サクソン人も現在のデンマークやドイツに起源をもつ人々なのです。1066年という微妙な年を前に一区切りつけるのはこの年にイギリス史上最も重大と言っては過言ではない事件が起きた年であるからです。

≪古代≫
グレートブリテン島には旧石器時代以前から人類が居住していたそうです。この人たちによってストーンヘンジが作られたと目されています。
さて、ブリテン島にやって来た初めての侵略者はケルト人でした。彼らは前9世紀以後にヨーロッパから侵入しました。このケルト系の人々は現在のスコットランド、ウェールズ、アイルランドの人々の先祖に当たります。ケルト系の人々はローマ人にブリトン人と呼ばれました。これがイングランド、ウェールズ、スコットランドを含む島を示すブリテンの由来です。
ブリテン島に次にやって来たのはローマ帝国です。一世紀中ごろにローマ帝国はブリテン島の南部を征服しブリタンニア属州を打ち立てました。ちなみにロンドンはローマ人によって作られた都市で当時はロンディニウムと呼ばれていました。このローマ人が築いた1マイル(約1.6㎞)四方ほどの都市は現在のシティ・オブ・ロンドンに相当します。ローマによる支配はおよそ400年間続きました。その際に五賢帝(ローマ絶世期の5人の皇帝)の一人ハドリアヌスによって築かれた長城は現在のイングランドとスコットランドの境界となりました。
ハドリアヌスの長城
北方のケルト人の侵入を阻んだ
375年フン族に圧迫されたゲルマン人たちがローマ帝国へと次々に侵入、各地で襲撃略奪を始めます。410年ついに本国防衛のためローマ人はブリタンニアを放棄し撤退しました。ブリテン島は再びケルト人の支配する島となります。

≪中世≫
ケルト人の支配は長く続きませんでした。現在のデンマークや北部ドイツにあたる地域からアングロ・サクソンと呼ばれるゲルマン系の人々が侵入します。アングロ・サクソンは3つのゲルマン民族の総称でその一部族アングル人はイングランドの語源となりました。アングロ・サクソン人はイングランド各地に小さな王国を建国しました。7つの大国があったことからこの時代は七王国時代と呼ばれました。
七王国はヘプターキー(七王国を意味するギリシア語)とも呼ばれた
ちなみに実在は定かでありませんがアーサー王はこのゲルマン人の侵入に対抗したブリトン人の王という説もあります。彼の実在はともかくケルト人はイングランドから駆逐され現在のスコットランド、ウェールズ、アイルランドへと逃れていきました。英語に残るケルト由来の単語の少なさからもこの2つの民族が友好的関係ではなかったことが読み取れます。アングロ・サクソン人はローマ時代に始まったキリスト教の伝統を一度は破壊しましたが次第に受容していきました。
七王国時代は9世紀、ウェセックス王国のエグバード王がイングランドを統一したことで終わりを迎えます。統一されてもイングランドに平穏は訪れませんでした。9世紀の中ごろから北欧のヴァイキングたちがブリテン島を襲撃はじめます。一度は統一されたイングランドですがヴァイキングの一派、デーン人によってウェセックスを除き占領されてしまいます。しかしウェセックスのアルフレッド大王によりデーン人は押し返され、ロンドンとチェスターを結ぶ線が国境に定められます。
黄色い部分がデーン人の居住地、後にデーンロウ地方と呼ばれる。
しかし、両者の関係が安定することはなく1016年にデンマーク王のクヌートがイングランドの王位を手に入れデンマーク、ノルウェー、イングランドを同君連合国(複数の国が一人の王を戴くこと、現在のイギリスは北アイルランド、スコットランド、ウェールズ、イングランドがエリザベス2世という一人の女王を戴く同君連合国である。)としますが彼の死後帝国は崩壊しました。デーン人の支配は終わりましたが北イングランドでは以後もデーン人の慣習法が用いられていたためデーンロウ地方と呼ばれました。その後50年ほどアングロサクソン人の王国がイングランドに復活しますがすべては1066年の大事件によって一変します。

2017年2月18日土曜日

西欧世界の人名

「ヨーロッパ」と一言に括ってもそこには様々な人種、言語の人々が住んでいます。しかし一方で、ヨーロッパの人々はギリシア・ローマを祖とし、キリスト教を信奉するという点で世界観を共有していると言えるでしょう。そのため彼らは多くのものを少々異なった形で共有しているのです。例えば人名です。ジョン、ジャン、ヨハン、ジョヴァンニといった名前を聞いたことはないでしょうか。これらはすべて聖書に登場するヨハネがヨーロッパの各言語に対応した形なのです。先ほどの例は英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語でのヨハネの呼び方なのです。PC作成に限らず人物を創作する際にその人物の持つ背景に対応した言語の名前を付ければその人物はリアリティを伴って現れてくれるはずです。


英語フランス語ドイツ語イタリア語ロシア語
男性名
ジョンジャンヨハンジョヴァンニイヴァン
ピーターピエールペーターピエトロピョートル
トーマストマトーマストンマーゾフォマー
フィリップフィリップフィリップフィリッポフィリープ
ヴィクターヴィクトールヴィクトルヴィットーリオヴィクトル
マイケルミシェルミヒャエルミケーレミハイル
ジョゼフジョゼフヨーゼフジュゼッペヨシフ
ジョージジョルジュゲオルグジョルジョゲオルギー
アレグザンダーアレクサンドルアレクサンダーアレッサンドロアレクサンデル
女性名
ヴィクトリアヴィクトワールヴィクトリアヴィットーリアヴィクトリア
メアリ―マリーマリアマリーアマリヤ
マーガレットマルグリットマルガレーテマルゲリータマルガリータ
ジェーンジャンヌヨハンナジョヴァンナヨアンナ
エリザベスエリザベートエリーザベトエリザベッタエリザヴェータ
キャサリンカトリーヌカタリーナカテリーナエカテリーナ
アンアンヌアンネアンナアンナ

このように一つの名前でも言語が変われば発音に大きな違いがあります。この他にも多くの名前が共有され、その言語に対応した形で呼ばれています。次からキャラクターの名前を決める際そのキャラクターの母語などに注目して名前を決めてみるのもよいのではないでしょうか。

2017年1月15日日曜日

職業追加パックその3「作家」「ジャーナリスト」「古物研究家」「芸術家」

※現在策定中のためこれらのデータは変更される場合があります。最終更新日2017年1月15日

◎作家
階級:ロワーミドル以上
【概要】
作家は何らかの文学活動に関わる人間を指す。この文学活動には小説家、劇作家、詩人あるいはそれらを跨いでの活動が考えられる。ヴィクトリア朝では識字率の向上、技術の改良等により読書は階級を問わない趣味となっていた。年間1ギニー(1ポンド1シリング)の会費で利用できたミューディーズ等の貸本屋はその証左であろう。そのため文学性よりも娯楽性を重視した大衆向けの作品が花開いた時代でもある。アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズはその最たるものであろう。「オリバー・ツイスト」や「クリスマス・キャロル」で知られるチャールズ・ディケンズも国民作家として貴賤老若問わず愛された。また、アンソニー・ホープによって書かれた「ゼンダ城の虜」のようなロマンスは若い女性たちの憧れであった。
文壇ではブロンテ姉妹、ジョージ・エリオット、エリザベス・ギャスケルら女性やバーナード・ショー、オスカー・ワイルド、W.B.イェイツなどアイルランド系というように社会的に抑圧された人々も活躍していた。
技能:≪芸術(執筆)≫≪母国語≫≪ほかの言語≫≪歴史≫≪図書館≫≪説得≫≪心理学≫個人的な関心2つ

◎ジャーナリスト
階級:ロワーミドル、ミドル
【概要】
 ジャーナリストは新聞、雑誌等の出版物に関わる人を指す。ヴィクトリア時代において新聞を取ることは、スマートフォンを持ちインターネットを使うようなもので、中流階級以上の人々にとって幾つかの新聞を定期購読することは常識であった。
 19世紀後半となるとロンドンだけでも数百紙の新聞、雑誌が刊行されていた。ロンドンの新聞産業の中心としてはシティのフリート・ストリートが知られている。新聞は全国紙に限らず、地方紙も盛んに発行されていた。新聞は会社ごとに高尚か低俗か、保守か革新かと大きくちがっていた。もちろんジャーナリスト自体も大きく異なっていた。高級紙の記者はミドルクラスの人々であるだろうし、低俗な新聞の記者は階級の低い人であるだろう。
 もちろん女性のジャーナリストもいた。1890年からタイムズへ寄稿していたフローラ・ショウは93年にコロニアル・エディターとしてタイムズの植民地ならびに諸外国と呼ばれる国際面を担当し1900年に結婚退職するまでに500本の記事を寄稿した。
技能:≪経理≫≪回避≫≪言いくるめ≫≪図書館≫≪聞き耳≫≪ほかの言語≫≪母国語≫≪説得≫≪写真術≫≪目星≫≪心理学≫

◎古物研究家
階級:ミドル以上
【概要】
古物研究家は古い時代の何らかの物品を扱う人々を指す。この職業の探索者は美術商や古書籍商かもしれないし、個人蒐集家であるかもしれない。ヴィクトリア時代ではエジプト、ギリシア、ローマのような古代文明だけでなく日本や中国、インドのようなアジアへも興味が向いていた。美術品のオークションも盛んでクリスティーズやサザビーズといったオークションハウスでは世界中の珍品が取引されていた。
技能:≪経理≫≪値切り≫≪信用≫≪歴史≫≪図書館≫≪ほかの言語≫≪説得≫≪目星≫個人的な関心2つ、任意の芸術技能1つ

◎芸術家
階級:ロワー以上アッパーミドル以下
【概要】
この職業は彫刻、絵画、音楽等広範な芸術活動に関わる人々を指す。絵画であれば挿絵画家、ポスター画家のような大衆娯楽にかかわる人々や肖像画家のように上流階級とつながりのある人間もいるだろう。音楽であればダンスホールのような場や大邸宅での室内楽、オーケストラと様々な人間が想像できる。彼らには裕福なパトロンがいる場合も考えられる。
19世紀後半の芸術としてはウィリアム・モリスが主導したアーツアンドクラフツ運動やそれを論理的先駆としたアール・ヌーヴォーが挙げられる。ロンドンにおいてはチェルシーやソーホーといった地域に芸術家が多く居住しており美術の発信地となっていた。
技能:≪値切り≫≪歴史≫≪図書館≫≪ほかの言語≫≪目星≫≪聞き耳≫ 任意の芸術もしくは製作 個人的な関心2つ

2016年8月6日土曜日

追加職業パックその2「教授・学者」「科学者・技術者」「学生」+おまけ

※現在策定中のためこれらのデータは変更される場合があります。最終更新日2017年1月10日

◎教授・学者
階級:ミドル、アッパーミドル
【概要】
 この職業には学問に携わる広範な職業が含まれる。考えられるものとしては大学教授、学芸員、パブリックスクールの教師などが挙げられる。
 19世紀に英国の大学は爆発的に増加した。それまでイギリス(ブリテン諸島)には7つの大学があるのみだった。19世紀に設立された大学としてはダラム大学やロンドン大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなどが知られる。
 学芸員は美術館、博物館職員を指す。ロンドン市内には大英博物館やナショナル・ギャラリーなどの多くの博物館、美術館が存在している。探索者は館長であったり、理事となるような重要な役職を引き受けている場合も考えられるだろう。
 パブリックスクールは上流階級の子息がラテン語や古代ギリシア語等について学ぶ名門私立校である。ヴィクトリア時代、法的にパブリックスクールと呼ばれる学校は9校あり「ザ・ナイン」と呼ばれた。
 探索者の中には仕事にあぶれたアカデミックな人々もいるかもしれない。そのような人々は良家の子息の個人指導教師(tutor)や個人教授という収入の不安定な職業についていた。例えば、夏目漱石はロンドン留学中(1900~1902年)にウィリアム・クレイグというシェイクスピア研究家から個人教授を受けている。クレイグは、元アベリスティス大学の教授であったが、大学の経済的苦境からか解雇され、その後、漱石らに1回5シリングで授業を行っていたとのことである。
 ヴィクトリア朝時代において女性は感情的と捉えられ、研究の世界から遠ざけられていた。しかし、ごく少数であるが女性の研究者もいた。1839年に設立された英国植物学会はその設立当初から女性の会員を認めている。これは植物を描く、育てる、その効能を知ることはレディのたしなみでもあったからである。
技能:≪図書館≫≪説得≫≪古代ギリシア語≫≪ラテン語≫≪他の言語≫ 専門とする学問を任意の数

◎科学者・技術者
階級:ミドル、アッパーミドル
【概要】
この職業に分類されるものとしては科学者、発明家、技術者、建築家などが考えられる。彼らの専門分野は生物、建築、天文、航空、軍事など広範に及ぶ。
 ヴィクトリア時代は科学が体系化しただけでなく、科学そのものが目覚ましい発展を遂げていた。ヴィクトリア時代の科学者として著名な人物として電気分野で多大な功績を遺したマイケル・ファラデー(1791~1867年)や進化論のチャールズ・ダーウィン(1809~1892年)が挙げられる。
 19世紀に発明されたものとしては鉄道、飛行船、電話、シネマトグラフ、電球などが挙げられる。これら、画期的発明の数々は人々の生活を豊かなものとした。
 また同時代の技術者としては日本において知名度は低いがイザム・キングバード・ブルネル(1806~1859年)が挙げられる。彼の一番の功績は大西洋横断電信ケーブルの敷設である。これによりアメリカ大陸とイギリスの間で通信が可能となった。彼は現在でもイギリスで最も偉大な人物の一人に数えられる。
 探索者の専門とする分野によっては政府をはじめ、各界の有力者から援助を受けているかもしれない。
技能:≪製作≫≪歴史≫≪図書館≫≪機械修理≫≪説得≫≪目星≫ 専門とする分野を最大6つ

◎学生
階級:ミドル、アッパーミドル、アッパー
【概要】
 この職業は主としてパブリックスクール、もしくは大学の学生を指す。そのため彼らの階級は彼らの家の所属する階級に左右されるだろう。年収については収入ロールの半分の値とする。
 パブリックスクールは13歳から18歳の上流階級の子息にジェントルマンとなる教育を施した名門寄宿学校である。パブリックスクールの卒業者は基本的にケンブリッジ大学、オックスフォード大学へと進学する。オックスブリッジと称される両大学からは未来の首相や貴族、地方紳士、聖職者、弁護士、医師など正真正銘のジェントルマンが世に送り出された。
 大学の門戸は上流階級にしか開かれていなかったわけではない。例えば1836年に設立されたロンドン大学はパブリックスクール出身者以外も入学することができた。また、ロンドン大学には女性の学生も在籍していた。
 学生はイギリス人に限られた話ではない。19世紀には植民地や他国から留学に来る人も多かった。例えばインド独立の指導者として知られるガンディーは1890年代初めにロンドンで法学を学んでいる。日本からも夏目漱石や東郷平八郎がヴィクトリア朝期にイギリスに留学している。
パブリックスクールは上流階級の子息をジェントルマンとする教育機関であるがレディを育成する機関も存在した。フィニッシングスクールと呼ばれる寄宿学校のことである。これは良家の子女が社交界デビューに備えるために入学した学校で教養、エチケット、社交スキル、外国語などを教育した。そのためフィニッシングスクールに在籍する探索者であれば技能欄の≪ラテン語≫を≪フランス語≫に変更しなくてはならない。
技能:≪信用≫≪図書館≫≪母国語≫≪ラテン語(フランス語)≫≪他の言語≫≪説得≫≪聞き耳≫≪乗馬≫ 個人的な興味2つ、専門とする分野1つ


おまけ:ヴィクトリア朝の教育、教養に関する事柄

○パブリックスクール
 未来の英国を支配するエリートたちを養成する寄宿学校で13歳から18歳までのジェントルマンの卵たちが在籍した。教育内容はラテン語、ギリシア語などの古典的なものであった。週20時間の授業の内17時間は古典語の授業とされた。授業では文法を学んだり、キケロの暗唱などを行ったそうだがこれらは生徒たちにとって退屈なものだったようだ。
 精神教育も重視されており礼拝、スポーツが盛んにおこなわれた。フットボールとラグビーの成文化されたルールがパブリックスクールから生まれたのはその証拠と言えよう。ワーテルローでナポレオンに勝利した初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーは「ワーテルローに勝利できたのはイートン校の運動場のおかげ」と言ったと伝えられている。
※実際にはモンタランベールなるフランス人の“C'est ici qu'a ete gagnée la bataille de Waterloo.”が変形したものらしい。
そのようなスポーツ教育はフェアプレイの精神をジェントルマンの共通理念として根付いた。イギリス人を語るうえでフェアプレイの精神は非常に重要なものと言える。ことに上流階級はフェアプレイを重要視し様々な場面で引き合いに出す。
 文武両道に秀でた最も優秀な最上級生は監督生(Prefect)となり下級生の指導を行った。このことからもわかるがパブリックスクールは上下関係の非常に厳しい世界で上級生と下級生の待遇には大きな差があった。ジェントルマンを育成する上で上下規律は重要であるとも考えられていた。
 パブリックスクールは男性のみの空間であった。その環境ゆえに同性愛は珍しいものではなかった。しかし、ヴィクトリア朝において同性愛は口に出すのも憚られる罪であった。
【主なパブリックスクール(ザ・ナイン)】
イートン校、ハーロー校、ラグビー校、ウェストミンスター校、ウィンチェスター校、マーチャント・テイラーズ校、セントポールズ校、ジュールズベリー校、チャーターハウス校

○女性と教養
 フィニッシングスクールの女性であれば≪ラテン語≫を≪フランス語≫に変換するよう記したがこれには女性とその教養への時代感が現れている。ラテン語や古代ギリシア語といった古典語は学問的な言語であり、これらを解する女性は生意気であるとされたためである。古典は男性のものであると考えられていたのだ。例え聖書であっても女性が引用する際は細心の注意を払う必要があった。インテリすぎる女性は貰い手がいないと階級を問わず考えられていたのである。
 女性に求められていた教養は家政のみであった。事実初等から高等に至るまで私立学校では良き妻となる教育を重視していたし、そのような授業には国から補助金が支給された。

○下層階級と教育
 1870年国によって公立小学校が設立されたことで下層階級にも教育の機会が与えられた。授業料は無料で全国統一のカリキュラムで教育が施された。この教育は成功をおさめ90年代には識字率が90パーセントを上回っている。他にも下層階級向けの教育機関としては使用人養成学校のような職業訓練校も存在していた。

2016年8月5日金曜日

追加職業パックその1「医師」「看護婦」「精神科医」+おまけ

※現在策定中のためこれらは変更される可能性があります。最終更新日8月6日


◎医師
階級:アッパーミドル
【概要】
 医師は内科、外科をはじめ幾枝にも分岐する専門的医療を生業とする人々を指す。医師は基本的に自宅兼診療所を有しているが、藪医者などであれば話は別であろう。腕利きの開業医たちは、ロンドンはメリルボーンにあるハーレーストリートに居を構えている。しかし、他の地域や郷里へ戻って開業する医師が大半であった。医師の中には船医や軍医なども含まれる。彼らの多くは開業する資金のない者で、資金集めのために仕事をしている場合が多かった。シャーロック・ホームズの相棒J.H.ワトソンもイングランドで診療所を開業する以前は、第二次アフガン戦争に軍医として従軍していた。ちなみに、ごく少数であるが女医も当時存在した。
 19世紀初めは内科医が医師の頂点とされ、次に外科医が位置付けられていた。内科医であることは、ジェントルマンであることを意味していたと言っても過言でない。なお、技能欄にある≪ラテン語≫は主に内科医の技能であった。これは内科医となるためにギリシアのヒポクラテスから18世紀に至るまでの医術書を理解する必要があったためである。外科において、先進的な研究がなされていたのはスコットランドのエディンバラとフランスのパリだった。そのためPCが外科医であるならラテン語をフランス語と入れ替えても問題ない。ヴィクトリア朝後半にはこの両科の不合理な区別に抵抗した医師が増えた。彼らは一般開業医(General Practitioner)と呼ばれ次第に影響力を増していった。ちなみに階級の最下位とされたのが薬剤師で医師がいない地域や低所得者の医療を担っていた。
技能:≪生物学≫≪信用≫≪応急手当≫≪ラテン語≫≪図書館≫≪医学≫≪薬学≫≪心理学≫個人的な関心2つ

◎看護婦
階級:ロワーミドル
【概要】
近代職業看護婦の歴史はヴィクトリア朝中期フローレンス・ナイチンゲールにはじまる。彼女はクリミア戦争(1853年~1856年)に従軍し、傷病兵の看護を行った。1860年にはフローレンス・ナイチンゲール看護学校が聖トーマス病院で設立される。その後各地でこれをモデルにした看護学校が次々に設立された。看護婦はヴィクトリア朝において女性がなることのできた数少ない職業の一つであろう。次第に彼女らは医療現場において無くてはならない存在となっていった。
技能:≪生物学≫≪医学≫≪応急手当≫≪薬学≫≪ほかの言語≫≪精神分析≫≪経理≫≪目星≫個人的な関心1つ

◎精神科医
階級:ミドル、アッパーミドル
【概要】
 精神医学という言葉が生まれたのは19世紀の初頭のことであった。ヴィクトリア朝中期、精神科医は『マッド・ドクター』や『エイリアニスト』と呼称されていた。
 19世紀中期、狂気は遺伝によって引き起こされると考えられていた。当時の医学では、狂気は母親から遺伝しやすく、娘に影響する場合が多いと考えられていた。これはヴィクトリア朝において、女性の多くがヒステリーであったことに由来する。実際に、この時代の5割以上、文献によっては7割の女性がヒステリーを抱えていたとされる。なお、1890年には女性のヒステリーを治療するために、電動バイブレーターが発明され特許を取得している。これは性欲は男性だけのものと考えられ、女性に過度な禁欲主義が浸透していたことが原因ではないかとされている。
 19世紀末期、ウィーンのジークムント・フロイトによって精神分析が確立される。先進的な考えを持つキャラクターであれば、彼と関係があるか、もしくは彼の論文を読んでいるかもしれない。
 この時代の精神病患者の治療法は薬品投与、催眠療法、精神分析であった。また、精神病患者は、人里離れた隔離施設に閉じ込められた。口封じのために、隔離施設に不当に閉じ込められる事例などは通俗小説で時々登場した。
技能:≪医学≫≪ドイツ語≫≪精神分析≫≪心理学≫≪説得≫≪図書館≫≪薬学≫個人的な関心1つ


おまけ:ヴィクトリア朝の病

【19世紀の英国において恐れられた、流行した病気】

マラリア
熱帯の病気と思われがちであるが少なくとも19世紀中ごろまで英国にも独自に存在していた。蚊によって媒介されるためリンカンシャーやケンブリッジシャーの沼地で流行した。下水が整備されたことでマラリアは英国から姿を消すが植民地で罹患する人間はその後も続出した。マラリアに感染した場合、専門的医療を受けられない人々は薬剤師からキニーネを購入していた。

脳卒中
脳卒中の犠牲者は突然倒れ、意識を失いその結果死に至ったり、回復しても麻痺が残ったりする。脳卒中はこの時代高血圧や過労、特に感情の高ぶりと結びつけて考えられていた。

コレラ
ロンドンの下水が未処理でテムズ川へと流出していた時代、コレラは飲み水から感染していた。嘔吐、下痢を主症状とするコレラはアジア由来で1830年代までヨーロッパで発生しなかった。コレラは貧民街での爆発的感染が起きたことから体制の陰謀ではと考える人間までいた。ロンドンでは数度コレラの大流行が発生している。ロンドンでは1854年に猛威を振るった。その後も1866年などにも発生している。島国であるイギリスは19世紀後半はコレラの被害を大きく受けていないが大陸部では時々大流行した。

肺結核
空気や傷口から感染し長時間潜伏の後、体力の「消耗」を引き起こした。この病で目がぎらつき、興奮状態になり、そこから類まれな創作活動が引き起こされることがある。そのためヴィクトリア朝でこの病は芸術的才能や想像性と関係があると一般に考えられた。19世紀にもっともイギリス人を殺した病気であると考えられている。

消化不良
保存状態の悪いものは別として十分に咀嚼しない場合や食べ過ぎで引き起こされた。飽食の時代を表す病気の一つであろう。

チフス
ヒトジラミによって感染する。虚妄、頭痛、発疹、高熱などが起こる。ナポレオンはロシアから撤退の際に多くの兵士をこの病に奪われた。2週間以内に死に至らなければたいていの場合生存した。チフス菌によって発祥する腸チフスという別の病気がある。これはヴィクトリア女王の夫アルバート殿下を若くして死に至らしめた。

黄熱病
日本では野口英世で有名な病である黄熱病は熱帯地方の病である。重度の場合黄疸が起こるためこの名で呼ばれる。その場合は腎不全、肝不全を起こし死に至る。軽度の場合はインフルエンザに似ている。その多くは港湾や船内で発生したため黄熱病患者を乗せた船は黄色い旗を掲げる義務があった。そこからこの時代イエロージャックと渾名されていた。

【病気に付随するいくつかの興味深い事例】
・ヴィクトリア朝の人々は湿気をしばしば病気の要因と考えていた。
・1875年細菌の存在が証明される。それまで空気中の瘴気が伝染の原因と考えられていた。
・19世紀、輸血は何度か試みられたが血液型の概念が存在せず多くは失敗に終わった。
・ヴィクトリア朝においてアヘンチンキは万能薬のように使用されていた。
 これは大人子供問わずであり薬剤師や雑貨屋からかなりの低価格で購入できた。
 もちろん警鐘を鳴らす人間や法的規制も存在したが意味をなさなかった。
・ヴィクトリア時代であっても精神病による減刑は存在していた。
 タイムズ紙の1853年の論説は当時の精神病減刑を考えるうえで興味深い。
  
正気と精神錯乱の境界を画一する一線ほど、かすかにしか定義できないものはなさそうだ......あまりに狭義にしてしまっては意味がない。かといって定義の幅を広げすぎると、人類全体がその網に引っ掛かってしまう。厳密にいうなら、情熱、偏見、悪徳、虚栄に負けるときの我々は皆頭がおかしくなっているのだ。だからと言って、情熱的で偏見を持った虚栄心の強い人間が皆精神病院に閉じ込められるとしたら、誰がその精神病院の鍵を預かればいいのだろう?

2016年5月4日水曜日

現代に残るヴィクトリア朝

 ヴィクトリア朝から100年以上の時が流れていますがその影響は日本にも残っています。今回は現代日本でも見ることのできるヴィクトリア朝の文化を見ていきましょう。

○結婚式
結婚式には多くのヴィクトリア朝のエッセンスを見つけることができます。なんといってもまずはその衣装でしょう。男女ともに衣装はヴィクトリア朝にルーツを持ちます。1840年、ヴィクトリア女王はザクセン=コーブルク=ゴータ家のアルバートと結婚します。それ以前王族の結婚式で女性は銀色の衣装が着用されていました。しかし、ヴィクトリアはレースで美しく装飾された純白のドレスを纏いました。これを人々がこぞって真似て現在に至るわけです。
ヴィクトリアとアルバートの結婚。ちなみにプロポーズしたのは一目惚れしたヴィクトリア。
この日ロンドンの群衆たちは老いも若きも卑しきも貴きも歓喜に包まれた。
さて、男性の衣装に話を移しましょう。現代見かける男性の服装はタキシード、モーニングコート、フロックコートといったところでしょうか。時々フロックコート風の服をタキシードと呼んでいる例も見かけます(嘆かわしいことです)。モーニングコートとフロックコートはヴィクトリア朝で礼服として使用されました。二つの服装は似ていますがモーニングコートは裾が斜めにカットされているのが特徴です。また現在では一概にそうとは言えないのですがフロックコートはダブルブレストでした。一応説明しておくとダブルブレストとはボタンが二列になっているということです。
 タキシードは1870年代のヨーロッパ大陸で喫煙用に用いられたスモーキングという服が起源です。それをプリンス・オブ・ウェールズが取り入れディナージャケットを考案しました。タキシードというのはアメリカのタキシードクラブに由来するものです。イギリスでは現在もディナージャケットと呼ばれています。現在は礼服のタキシードですが、礼服として認められたのは1920年代のことです。

モーニングコート
フロックコート
さて、服装だけではありません。豪華絢爛なウェディングケーキもこの時代から作られるようになりました。日本のウェディングケーキは3段程度の作りですがこれはヴィクトリア朝に由来します。ちなみにイギリスではウェディングケーキは保存の効く素材で作られました。ウェディングケーキは結婚式に参列した人や参列できなかったゆかりのある人に贈られました。ウェディングケーキを枕の下に置いて寝ると未来の夫を見られるという言い伝えもありました。生地が固くクリームが使われなかったからこそできる芸当ですね。また、ヴィクトリア朝ではありませんがハネムーンも1820年代頃に上流階級に広まったものです。
ヴィクトリア女王の娘ヴィクトリアと後のドイツ皇帝フリードリヒ3世の結婚式で供されたウェディングケーキ。
これがきっかけとなりイギリスのウェディングケーキは2~3段となった。
○クリスマスツリー
 クリスマスツリーの発祥はドイツですがヴィクトリア時代に各家庭で飾る風習が出来上がりました。ドイツからやってきたアルバートを歓迎するために女王がツリーを飾りました。これは王室内部のことでしたが1848年にイラストレイテッドロンドンニュースが記事にしました。これを見た上流階級の人々がツリーを飾りはじめ60年代には一般的なことになったようです。
クリスマスツリーを囲む王家の人々
王家は中流階級の人々にとって良い家庭の理想だった。
○バレンタインデー
 バレンタインデーにチョコレートを意中の相手に渡す風習については様々な説があります。門外漢には理解が及ばないのでヴィクトリア朝を起源とする説もあるということを紹介します。
 1868年チョコレート製造者リチャード・キャドバリーは美しく装飾されたチョコレート箱を作ります。
これはバレンタインデー用であったとかなかったとか様々な説があります。美しいデザインの箱は贈答用として人気を博し食べ終わった後も小物入れに利用されました。精巧なチョコレート箱はヴィクトリア朝末期には特別な贈り物と考えられるようになりました。
キャドバリーのハート形のチョコレートボックス
なかなかぼんやりとした話しかできず申し訳ありません。しかし、ヴィクトリア朝ではバレンタインデーには他にも送るものがありました。それはバレンタインカードです。これは男女関係なく大切な人に贈られました。カードは匿名で書かれていました。そのため、誰からであるか、本気であるか見極める必要が人々にはあったのです。
19世紀後半のバレンタインカード
to my valentineは決まり文句


記事を作成して思いましたがどうもリア充御用達イベントが多いですね...

2016年4月27日水曜日

ヴィクトリア朝前史

 まずはヴィクトリア朝に至るまでの歴史をさらりと振り返ってみましょう。ヴィクトリア女王が生まれるおよそ100年前の1714年から簡単に紹介していこうと思います。

ジョージ1世(1714~1727)
彼はイギリスの政治に関心がなく政治を内閣に一任した。これによりイギリスの立憲君主制が形成されていく。
※以後人物説明文のカッコ内の年数は在位期間。
1714年ステュアート朝が断絶し、ハノーヴァー選帝侯ゲオルグが国王として招かれます。ハノーヴァー選帝侯とは神聖ローマ帝国(おおよそ現在のドイツ)の特権的諸侯です。ここに現在の王家ウィンザー家にまで続くハノーヴァー朝が成立します。

 ゲオルグはジョージ1世として即位しましたがドイツ人ですから英語は得意でありませんでした。また、彼にとっては祖国ハノーヴァーのほうが大切でしたし、英国の政治事情も分かりません。そのため彼は英国の政治を議会に委ねることにしたのです。こうして「王は君臨すれども統治せず」と形容される英国の議院内閣制が成立していきました。

ジョージ3世(1760~1820)
アメリカ独立戦争、フランス革命の激動と身内のスキャンダルで彼は精神を病んだ。
さて、時間を飛ばし1760年、この年3代目のハノーヴァー朝君主ジョージ3世が即位します。彼は前代までと違い英国生まれ英国育ちであったため政治に積極的に関与しました。この頃英国はフレンチ・インディアン戦争によって財政に危機的打撃を受けていました。そのため政府はアメリカ植民地の課税を強化していきます。無論アメリカでは本国への感情が悪化し、1775年ついにアメリカ独立戦争がはじまります。周知の通りこの戦争によってアメリカ植民地は独立しアメリカ合衆国が建国されます。このアメリカ独立戦争はフランス革命の引き金の一つともなりました。フランス革命に続くナポレオン戦争は言うまでもありません。

 ジョージ3世を悩ませたのはこれらの政治上の理由だけではありません。彼の身内でスキャンダラスな事件が多発したのです。王太子(後のジョージ4世)は博打好きで莫大な借金を抱える問題児でした。次男は賄賂を受け取っていたことが発覚し陸軍最高司令官の地位を失います。これらは産声を上げたばかりのメディアにとって格好の標的でした。華美を嫌い家庭を愛したジョージ3世にとってこのようなことは耐え難いことだったのでしょう。もともと神経が繊細であったジョージ3世は1811年に正気を失ってしまいます。

ジョージ4世(1820~1830)
イングランドでの評判は悪かったがキルトを着用したことでスコットランドの臣民の信頼を勝ち得た。
摂政王太子としての彼の名はリージェンツストリートやリージェンツパークとして残っている
執務をこなせなくなったジョージ3世に代わり王太子が摂政として国王の代理となります。1811年から1820年まで続く摂政王太子による統治を「摂政時代」と呼びます。王太子がジョージ4世として即位したとき王室の権威は地に落ちていました。彼は妃を極端に嫌い、戴冠式に妃を出席させないことにしていました。戴冠式へ向かう彼に群衆は「お前さんの女房はどこだね?」と罵声を浴びせたとされます。
 ちなみに彼がスコットランドで民族衣装のキルトを着たところ爆発的な人気を得ることができ、「ジョージ王は我ら氏族の総代表である。」とスコットランドの人々からの信頼を得ることに成功します。現在でも王家の人間がスコットランドで過ごす際はキルトが着用されています。ちなみに彼は記録上では初めてのフリーメイソンの英国王です。
 ヴィクトリアは王室の権威が失墜していた時期を目の当たりにしていました。これはヴィクトリア朝が過度に道徳的な社会となった理由の一つと考えられています。

ウィリアム4世(1830~1837)
ヴィクトリアにとっては伯父にあたる人物。「船乗り王」と親しみを込めて呼ばれた。
ジョージ4世の跡を継いで王になったのは当時65歳のウィリアム4世でした。彼は付き人なしでロンドンの町へ出かけ国民と握手したり気さくに話しかけたりするような人物で青年期に海軍で勤務していたことから「船乗り王」と親しみを込めて呼ばれていました。彼の治世において奴隷制の廃止が行われたり新救貧法の制定がなされました。他にも第一次選挙法改正が為されこれをきっかけに議会制度が完成していきます。

ヴィクトリア(1837~1901)
英国の最も輝かしい時代を統治した女王。
彼女にちなんだ地名は世界のいたるところにあり、世界中の臣民から「帝国の母」と慕われることになった。

 そして1837年6月20日ウィリアム4世が身罷られます。ついに我らが女王、アレクサンドリナ・ヴィクトリアが即位します。彼女はその日このような走り書きの日記を残しています。

この場に置かれたということは神意なのだから、国のために最善を尽くし自分の義務を果たそう。私はとても若く、全てとはいえないまでも多くのことに経験がないけれど、適切で正しいことをするにあたり、私が持っている以上の本物の善意や本物の願望を以ってする人はほとんどいないことを確信している。

ケンジントン宮殿からセント・ジェームズ宮殿へ向かう女王を臣民は歓声の声で迎えました。若き女王は感動で涙が溢れ、それを見た臣民の心は愛情と忠誠心で満たされたとのことです。そうして英国の輝かしき時代は幕を挙げたのでした。