2016年4月27日水曜日

ヴィクトリア朝前史

 まずはヴィクトリア朝に至るまでの歴史をさらりと振り返ってみましょう。ヴィクトリア女王が生まれるおよそ100年前の1714年から簡単に紹介していこうと思います。

ジョージ1世(1714~1727)
彼はイギリスの政治に関心がなく政治を内閣に一任した。これによりイギリスの立憲君主制が形成されていく。
※以後人物説明文のカッコ内の年数は在位期間。
1714年ステュアート朝が断絶し、ハノーヴァー選帝侯ゲオルグが国王として招かれます。ハノーヴァー選帝侯とは神聖ローマ帝国(おおよそ現在のドイツ)の特権的諸侯です。ここに現在の王家ウィンザー家にまで続くハノーヴァー朝が成立します。

 ゲオルグはジョージ1世として即位しましたがドイツ人ですから英語は得意でありませんでした。また、彼にとっては祖国ハノーヴァーのほうが大切でしたし、英国の政治事情も分かりません。そのため彼は英国の政治を議会に委ねることにしたのです。こうして「王は君臨すれども統治せず」と形容される英国の議院内閣制が成立していきました。

ジョージ3世(1760~1820)
アメリカ独立戦争、フランス革命の激動と身内のスキャンダルで彼は精神を病んだ。
さて、時間を飛ばし1760年、この年3代目のハノーヴァー朝君主ジョージ3世が即位します。彼は前代までと違い英国生まれ英国育ちであったため政治に積極的に関与しました。この頃英国はフレンチ・インディアン戦争によって財政に危機的打撃を受けていました。そのため政府はアメリカ植民地の課税を強化していきます。無論アメリカでは本国への感情が悪化し、1775年ついにアメリカ独立戦争がはじまります。周知の通りこの戦争によってアメリカ植民地は独立しアメリカ合衆国が建国されます。このアメリカ独立戦争はフランス革命の引き金の一つともなりました。フランス革命に続くナポレオン戦争は言うまでもありません。

 ジョージ3世を悩ませたのはこれらの政治上の理由だけではありません。彼の身内でスキャンダラスな事件が多発したのです。王太子(後のジョージ4世)は博打好きで莫大な借金を抱える問題児でした。次男は賄賂を受け取っていたことが発覚し陸軍最高司令官の地位を失います。これらは産声を上げたばかりのメディアにとって格好の標的でした。華美を嫌い家庭を愛したジョージ3世にとってこのようなことは耐え難いことだったのでしょう。もともと神経が繊細であったジョージ3世は1811年に正気を失ってしまいます。

ジョージ4世(1820~1830)
イングランドでの評判は悪かったがキルトを着用したことでスコットランドの臣民の信頼を勝ち得た。
摂政王太子としての彼の名はリージェンツストリートやリージェンツパークとして残っている
執務をこなせなくなったジョージ3世に代わり王太子が摂政として国王の代理となります。1811年から1820年まで続く摂政王太子による統治を「摂政時代」と呼びます。王太子がジョージ4世として即位したとき王室の権威は地に落ちていました。彼は妃を極端に嫌い、戴冠式に妃を出席させないことにしていました。戴冠式へ向かう彼に群衆は「お前さんの女房はどこだね?」と罵声を浴びせたとされます。
 ちなみに彼がスコットランドで民族衣装のキルトを着たところ爆発的な人気を得ることができ、「ジョージ王は我ら氏族の総代表である。」とスコットランドの人々からの信頼を得ることに成功します。現在でも王家の人間がスコットランドで過ごす際はキルトが着用されています。ちなみに彼は記録上では初めてのフリーメイソンの英国王です。
 ヴィクトリアは王室の権威が失墜していた時期を目の当たりにしていました。これはヴィクトリア朝が過度に道徳的な社会となった理由の一つと考えられています。

ウィリアム4世(1830~1837)
ヴィクトリアにとっては伯父にあたる人物。「船乗り王」と親しみを込めて呼ばれた。
ジョージ4世の跡を継いで王になったのは当時65歳のウィリアム4世でした。彼は付き人なしでロンドンの町へ出かけ国民と握手したり気さくに話しかけたりするような人物で青年期に海軍で勤務していたことから「船乗り王」と親しみを込めて呼ばれていました。彼の治世において奴隷制の廃止が行われたり新救貧法の制定がなされました。他にも第一次選挙法改正が為されこれをきっかけに議会制度が完成していきます。

ヴィクトリア(1837~1901)
英国の最も輝かしい時代を統治した女王。
彼女にちなんだ地名は世界のいたるところにあり、世界中の臣民から「帝国の母」と慕われることになった。

 そして1837年6月20日ウィリアム4世が身罷られます。ついに我らが女王、アレクサンドリナ・ヴィクトリアが即位します。彼女はその日このような走り書きの日記を残しています。

この場に置かれたということは神意なのだから、国のために最善を尽くし自分の義務を果たそう。私はとても若く、全てとはいえないまでも多くのことに経験がないけれど、適切で正しいことをするにあたり、私が持っている以上の本物の善意や本物の願望を以ってする人はほとんどいないことを確信している。

ケンジントン宮殿からセント・ジェームズ宮殿へ向かう女王を臣民は歓声の声で迎えました。若き女王は感動で涙が溢れ、それを見た臣民の心は愛情と忠誠心で満たされたとのことです。そうして英国の輝かしき時代は幕を挙げたのでした。

2016年4月25日月曜日

使用人の種類

 先日の投稿『二つの国民、社会階級と収入』http://fromvictorianage.blogspot.jp/2016/04/blog-post_42.htmlの終わりにかけて使用人の話題とその職種が幾例か登場しました。多くの人々が夢に描く大きな屋敷と忠実な使用人。今回はその使用人の種類を一部紹介していきたいと思います。

 その前に簡単に使用人の分類について説明します。まず使用人は男女で分類されます。従僕(man servant)と女中(maid servant)です。そしてその中でも役職の違いにより上級、下級に区別されました。使用人の世界であってもそこには職種によるヒエラルキーが存在していたのです。前にも述べました通り男性使用人を雇用すると多額の税金を支払うことになります。しかも、この時代男性使用人は女性使用人の倍ほどの給与を支払われていました。男性使用人は贅沢であるということも念頭に入れて読んでもらえるといいかと思います。

○従僕(man servant)

ルコンフィールド男爵の邸宅。ペットワースハウスの男性使用人たち(1870年頃)
・男性の上級使用人
ランド・スチュワード...家令とも訳される。最上位の使用人。領地の管理を行った。
ハウス・スチュワード...こちらも家令。館の管理、使用人の解雇を行った。
バトラー...執事。家令に次ぐ地位。銀器やワインの管理、従僕の統括を行った。
ヴァレット...近侍。主人の身の回りの世話や給仕、付き添いをした。執事と兼職することも。
クック、シェフ...男性の料理長。フランス人シェフを雇うことは一種のステータスだった。

・男性の下級使用人
フットマン...下僕。訪問客の応対、世話、給仕や執事の補助をした。恵まれた容姿が求められた。
コーチマン...御者。屋外使用人の中では最高位。厩の管理を行った。
グルーム..馬丁。馬の世話を行った。
ショーファー...自動車の運転手。エドワード時代(1901年~)から姿を現した。
ガーデナー...庭師。庭園の手入れの他訪問客の案内をすることもあったため礼儀が求められた。
ページボーイ...フットマンの見習いとして軽い雑用や使い走りをした少年。
ホールボーイ...力仕事や雑用などの下働きを行った少年。

○女中(maid servant)
グレヴィル家の邸宅。ビドルスデンパークの女中たち。


・女性の上級使用人
ハウスキーパー...家政婦長。女性使用人の最高位。女中の統括。家の運営を行った。
クック...炊婦。食材の管理、注文、厨房の総括をした。
ガヴァネス...住み込み家庭教師。中流階級出身で子供の教育、しつけを担当した。
ナーサリーガヴァネス...8歳までの子供の教育、しつけを担当した。
ナニー...乳母。母親代わりに子供の世話をした。
レディーズメイド...侍女。女主人の世話や付き添いをした。フランス人侍女が人気だった。
シャペロン...若い未婚の女性のお目付け役。礼儀作法の監督をした。

・女性の下級使用人
ジェネラルメイド...雑用を含む家事全般を行った。
メイド・オブ・オールワーク...一家が雇用するただ一人の女中のこと。すべての役割をこなした。
チェンバーメイド...寝室を担当した。その他暖炉の管理なども仕事だった。
パーラーメイド...応接間を担当し掃除、訪問客の応対を行った。良い容姿が求められた。
キッチンメイド...クックの助手。
スカラリーメイド...キッチンメイドの助手として洗い物、掃除食材の下ごしらえを行った。
ランドリーメイド...衣類、寝具を洗濯しアイロンをかけたりそれらの修繕を行った。

最後にこれらの使用人たちの純粋な給与を紹介していきます。「純粋な」という言葉を使用したのはそれぞれの仕事には役得が存在しましたし、他にも何種類かの給付がされていたからです。(例えば一日につき1パイントのビール代の手当など)

○男性使用人
バトラー...50~80£
シェフ...100~150£
フットマン...20£程度
コーチマン...25~60£

○女性使用人
ハウスキーパー...30~50£
各種メイド...10~15£

これらは1880年に発行された「使用人実用ガイド」が提案している各種使用人の給与です。実際のところ使用人の雇用形態や待遇は家ごとに大きく違っていました。

2016年4月24日日曜日

二つの国民、社会階級と収入

 ヴィクトリア朝が厳密な階級社会であることは皆さんご存知と思われます。爵位の有無だけでなく、職業や収入によっても階級が形作られました。階級の差はこの時代の人々の間に超えることのできない壁として横たわっていました。この時代の代表的政治家、ベンジャミン・ディズレーリは『二つの国民』とこのことを形容しました。今回は社会的階級や階級に見合った収入について解説できればと思います。
救貧院での食事の様子。救貧院では粗末で少量の食事にもかかわらず過酷な労働を強いられていた。
オリバー・ツイスト少年の「もう一杯ください」という哀願が思い起こされる。
上流階級の人々の晩餐の様子。贅の限りを尽くしたコース料理が何皿も用意された。
まず、イギリスには6つの社会階級があるといわれます。その階級とその階級に値する職業を紹介していきます。カッコ内はガスライトでの階級です。
※もっと大雑把であったり細かかったりする場合もあります。

アッパー(上流):貴族、準貴族、ジェントリ
アッパーミドル(上流~中流):弁護士、内科医、将校など
ミドル(中流):学者、中小経営者、専門職(職人)など
ローワーミドル(中流~下層):教師、兵士、警官など
ローワー(下層):労働者、使用人など
ロウイスト:売春婦、物乞いなど

 ガスライトにおいてはロウイストを除いた階級が設定されていました。ちなみにガスライトの収入ロールは探索のしやすさから本来より裕福になるようにされていました。本来の収入に照らし合わせるときっとこのようなロールになると思われます。ローワーで(1d4+2)*20£、ローワーミドルで(1d10+3)*25£、ミドルで(2d6+6)*50£アッパーミドル以降は収入の平均値というものが分からないのでどうしようもありません。事業に成功し巨万の富を手に入れたものの出自から上流階級として扱われない人もいましたし、上流階級であったものの屋敷を手放さざるを得ないほど零落した人物もいるからです。

さて、ここからは収入とそれに見合った使用人の数について紹介していきましょう。
ハードウィック伯爵の邸宅エルディグの使用人たち。服装によって職種が違った。
この写真に映っていないどちらかといえば下級の使用人たちもたくさんいただろう。
ヴィクトリア朝において使用人を雇うことは日常的なありふれたものでした。20世紀の初め英国の80万世帯で使用人が雇われていたと記録されています。階級的に言うならローワーミドル程度の収入から使用人を雇うことは可能でした。男性使用人は女性使用人に比べ税金が重いため女性が多く雇われる傾向にありました。

収入100£程度...メイド・オブ・オールワークスを一人
  300£程度...コック、ハウスメイド、ナニーの3人程度、男性使用人を雇う余裕はない。
  1000£程度...フットマンなど男性使用人が雇われるようになる。メイドは複数になった。
  5000£程度...執事などの上級職が加わる。ほぼ全種の使用人を雇用できた。
※ビートン夫人を参考としたためヴィクトリア朝末期では少々様相が違ったかもしれません。
使用人の様々な種類が出てきましたが、説明していると長くなるので次の機会に...

英国の住居

 ガスライトシナリオにおいて英国の人々の家を描写することは多いかと思われます。外国、あまつさえ時代も違うヴィクトリア朝の家がどうであったか想像するのは難しいことです。そんなわけで英国の人々の家を紹介していきます。

 田舎の貧しい人々は藁ぶきかスレート(薄い石の板)の小屋に住んでいました。最貧の人々は大きな部屋が一つあるのみで少し余裕があれば台所と寝室が別につきました。さらに立派になると4部屋あったり2階まであることもありました。
イングランドの茅葺屋根のコテージ(トマス・ハーディの絵画)
イーストエンドのような地域に住むロンドンの貧民たちも一部屋だけでどうにか暮らしていました。彼らはそこに折り重なるようにして過ごしていました。もちろん調理もその部屋で行われ小さな暖炉でそのような人々は調理をしました。しかしこれはまだましで部屋を持つことができず階段や踊り場で寝るような人間もいました。ぶら下がり宿という1ペニーで紐にもたれかかって寝ることのできる施設で暮らす人もいます。労働者でもある程度収入があれば郊外に4部屋程度の小さな家を構えることができたでしょう。その場合は大抵、寝室二つに居間と台所という構成となります。
奥まった場所で身を寄せ合う宿のない子供たち。
写真は1890年ニューヨークのものであるがロンドンにもこのような子供たちがたくさんいた。
裕福な人々は部屋の区分を細かくしていきました。家族が使う部屋と来客が使う部屋、それに使用人の使う部屋...両親の部屋と子供の部屋、男性使用人の部屋と女性使用人の部屋といった具合です。

 裕福な家庭の家族の使うスペースは主に3つの空間から成り立っています。私室(chamber)、仕事部屋(workroom)、居間(sitting room)です。
 私室はほとんど寝室と同義で化粧室(お手洗いではない)がついていることもありました。幼児にはナースリーという部屋があり、成長すると両親の部屋の上に部屋が与えられました。
 次に仕事部屋についてです。夫が手紙を書いたり書類を書いたりする部屋として図書室(library)や書斎(study)があります。妻には同じ目的のブドワールという部屋があり、子供にも勉強部屋(school room)がありました。
マンスフィールド伯爵がロンドン郊外ハムステッドヒースにもつケンウッド・ハウス
他の家々が目にかすむほどの広さであるがこれを凌ぐようなカントリーハウスは無数にある。
裕福な人々の邸宅にはもっと様々な部屋がありましたが長くなるのでまたの機会に...




2016年4月23日土曜日

紳士淑女たるもの

紳士淑女と聞いて粗野な人間を思い浮かべる方はいないと思われます。社交界が戦場である上流階級の人間にとってエチケットは武器と言って差支えないでしょう。エチケットはガスライトにおいては使用人の職業技能欄に何の説明もなく記載されています。(これが上流階級の職業の職業技能になっていないのは大きな謎ではありますが...)

...というわけでこの機にまず紳士の基本的なエチケットをご紹介したいと思います。

1.馬に乗ったり通りを歩いたりするときは、必ず女性に道の端を譲る。
  (この時代道の中央寄りは馬の排泄物等で汚れていることが多かった。)
2.階段を上るときは女性の前を歩く。降りるときは女性の後ろをついていく。
3.馬車に乗るとき男性は後ろ向きの席をとる。家族でない場合は隣に腰かけてはならない。
4.馬車を降りる際はまず自分が先に降り手を取って降ろしてやる。
5.演奏会などにおいてはまず自分が先に入り彼女の席を見つける。
6.同じ建物内で女性か年配の男性と出くわしたときは必ず帽子をとる。
7.初対面の場合男性が女性より先に紹介される。
  (人を紹介する場合初めに地位の劣ったものから紹介されていた。)
8.男性は女性の前でタバコを吸ってはならない。
9.顔見知り程度の女性と出会ったときは彼女が気づき会釈してくれるまで挨拶してはならない。
  また挨拶は遠く離れた場所から帽子を持ち上げるにとどまる。
  この場合女性が話しかけてくれるまで男性は女性と話してはならない。
10.親しい女性と出会い彼女が話したい様子であったら彼女の歩くほうへと向きを変える。
  女性を立たせたままにしておくようなことがあってはならない。

馬車だけでなく列車であっても車であっても男性は女性が降車する手伝いをすべきである


次に淑女のエチケットをこれもまた基本的なものをご紹介します。

1.女性は朝早く教会か公園へ歩いていく場合を除いて一人で歩いてはならない。
  必ず別の女性か男性、使用人と一緒である必要がある。
2.仕事上の相談を除き女性は男性宅を一人で訪問してはならない。
3.女性は午前中ダイヤモンドと真珠を身に着けてははならない。
4.舞踏会において同じパートナーと3回以上踊ってはならない。
5.女性は社交場で参加者に気づかなかったフリをしてはならない。
  交際を続けたくない男性がしつこく色目を使ってくる場合のみ無視が許される。
男性にとって女性と知り合うことは光栄なことである。