2016年8月6日土曜日

追加職業パックその2「教授・学者」「科学者・技術者」「学生」+おまけ

※現在策定中のためこれらのデータは変更される場合があります。最終更新日2017年1月10日

◎教授・学者
階級:ミドル、アッパーミドル
【概要】
 この職業には学問に携わる広範な職業が含まれる。考えられるものとしては大学教授、学芸員、パブリックスクールの教師などが挙げられる。
 19世紀に英国の大学は爆発的に増加した。それまでイギリス(ブリテン諸島)には7つの大学があるのみだった。19世紀に設立された大学としてはダラム大学やロンドン大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなどが知られる。
 学芸員は美術館、博物館職員を指す。ロンドン市内には大英博物館やナショナル・ギャラリーなどの多くの博物館、美術館が存在している。探索者は館長であったり、理事となるような重要な役職を引き受けている場合も考えられるだろう。
 パブリックスクールは上流階級の子息がラテン語や古代ギリシア語等について学ぶ名門私立校である。ヴィクトリア時代、法的にパブリックスクールと呼ばれる学校は9校あり「ザ・ナイン」と呼ばれた。
 探索者の中には仕事にあぶれたアカデミックな人々もいるかもしれない。そのような人々は良家の子息の個人指導教師(tutor)や個人教授という収入の不安定な職業についていた。例えば、夏目漱石はロンドン留学中(1900~1902年)にウィリアム・クレイグというシェイクスピア研究家から個人教授を受けている。クレイグは、元アベリスティス大学の教授であったが、大学の経済的苦境からか解雇され、その後、漱石らに1回5シリングで授業を行っていたとのことである。
 ヴィクトリア朝時代において女性は感情的と捉えられ、研究の世界から遠ざけられていた。しかし、ごく少数であるが女性の研究者もいた。1839年に設立された英国植物学会はその設立当初から女性の会員を認めている。これは植物を描く、育てる、その効能を知ることはレディのたしなみでもあったからである。
技能:≪図書館≫≪説得≫≪古代ギリシア語≫≪ラテン語≫≪他の言語≫ 専門とする学問を任意の数

◎科学者・技術者
階級:ミドル、アッパーミドル
【概要】
この職業に分類されるものとしては科学者、発明家、技術者、建築家などが考えられる。彼らの専門分野は生物、建築、天文、航空、軍事など広範に及ぶ。
 ヴィクトリア時代は科学が体系化しただけでなく、科学そのものが目覚ましい発展を遂げていた。ヴィクトリア時代の科学者として著名な人物として電気分野で多大な功績を遺したマイケル・ファラデー(1791~1867年)や進化論のチャールズ・ダーウィン(1809~1892年)が挙げられる。
 19世紀に発明されたものとしては鉄道、飛行船、電話、シネマトグラフ、電球などが挙げられる。これら、画期的発明の数々は人々の生活を豊かなものとした。
 また同時代の技術者としては日本において知名度は低いがイザム・キングバード・ブルネル(1806~1859年)が挙げられる。彼の一番の功績は大西洋横断電信ケーブルの敷設である。これによりアメリカ大陸とイギリスの間で通信が可能となった。彼は現在でもイギリスで最も偉大な人物の一人に数えられる。
 探索者の専門とする分野によっては政府をはじめ、各界の有力者から援助を受けているかもしれない。
技能:≪製作≫≪歴史≫≪図書館≫≪機械修理≫≪説得≫≪目星≫ 専門とする分野を最大6つ

◎学生
階級:ミドル、アッパーミドル、アッパー
【概要】
 この職業は主としてパブリックスクール、もしくは大学の学生を指す。そのため彼らの階級は彼らの家の所属する階級に左右されるだろう。年収については収入ロールの半分の値とする。
 パブリックスクールは13歳から18歳の上流階級の子息にジェントルマンとなる教育を施した名門寄宿学校である。パブリックスクールの卒業者は基本的にケンブリッジ大学、オックスフォード大学へと進学する。オックスブリッジと称される両大学からは未来の首相や貴族、地方紳士、聖職者、弁護士、医師など正真正銘のジェントルマンが世に送り出された。
 大学の門戸は上流階級にしか開かれていなかったわけではない。例えば1836年に設立されたロンドン大学はパブリックスクール出身者以外も入学することができた。また、ロンドン大学には女性の学生も在籍していた。
 学生はイギリス人に限られた話ではない。19世紀には植民地や他国から留学に来る人も多かった。例えばインド独立の指導者として知られるガンディーは1890年代初めにロンドンで法学を学んでいる。日本からも夏目漱石や東郷平八郎がヴィクトリア朝期にイギリスに留学している。
パブリックスクールは上流階級の子息をジェントルマンとする教育機関であるがレディを育成する機関も存在した。フィニッシングスクールと呼ばれる寄宿学校のことである。これは良家の子女が社交界デビューに備えるために入学した学校で教養、エチケット、社交スキル、外国語などを教育した。そのためフィニッシングスクールに在籍する探索者であれば技能欄の≪ラテン語≫を≪フランス語≫に変更しなくてはならない。
技能:≪信用≫≪図書館≫≪母国語≫≪ラテン語(フランス語)≫≪他の言語≫≪説得≫≪聞き耳≫≪乗馬≫ 個人的な興味2つ、専門とする分野1つ


おまけ:ヴィクトリア朝の教育、教養に関する事柄

○パブリックスクール
 未来の英国を支配するエリートたちを養成する寄宿学校で13歳から18歳までのジェントルマンの卵たちが在籍した。教育内容はラテン語、ギリシア語などの古典的なものであった。週20時間の授業の内17時間は古典語の授業とされた。授業では文法を学んだり、キケロの暗唱などを行ったそうだがこれらは生徒たちにとって退屈なものだったようだ。
 精神教育も重視されており礼拝、スポーツが盛んにおこなわれた。フットボールとラグビーの成文化されたルールがパブリックスクールから生まれたのはその証拠と言えよう。ワーテルローでナポレオンに勝利した初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーは「ワーテルローに勝利できたのはイートン校の運動場のおかげ」と言ったと伝えられている。
※実際にはモンタランベールなるフランス人の“C'est ici qu'a ete gagnée la bataille de Waterloo.”が変形したものらしい。
そのようなスポーツ教育はフェアプレイの精神をジェントルマンの共通理念として根付いた。イギリス人を語るうえでフェアプレイの精神は非常に重要なものと言える。ことに上流階級はフェアプレイを重要視し様々な場面で引き合いに出す。
 文武両道に秀でた最も優秀な最上級生は監督生(Prefect)となり下級生の指導を行った。このことからもわかるがパブリックスクールは上下関係の非常に厳しい世界で上級生と下級生の待遇には大きな差があった。ジェントルマンを育成する上で上下規律は重要であるとも考えられていた。
 パブリックスクールは男性のみの空間であった。その環境ゆえに同性愛は珍しいものではなかった。しかし、ヴィクトリア朝において同性愛は口に出すのも憚られる罪であった。
【主なパブリックスクール(ザ・ナイン)】
イートン校、ハーロー校、ラグビー校、ウェストミンスター校、ウィンチェスター校、マーチャント・テイラーズ校、セントポールズ校、ジュールズベリー校、チャーターハウス校

○女性と教養
 フィニッシングスクールの女性であれば≪ラテン語≫を≪フランス語≫に変換するよう記したがこれには女性とその教養への時代感が現れている。ラテン語や古代ギリシア語といった古典語は学問的な言語であり、これらを解する女性は生意気であるとされたためである。古典は男性のものであると考えられていたのだ。例え聖書であっても女性が引用する際は細心の注意を払う必要があった。インテリすぎる女性は貰い手がいないと階級を問わず考えられていたのである。
 女性に求められていた教養は家政のみであった。事実初等から高等に至るまで私立学校では良き妻となる教育を重視していたし、そのような授業には国から補助金が支給された。

○下層階級と教育
 1870年国によって公立小学校が設立されたことで下層階級にも教育の機会が与えられた。授業料は無料で全国統一のカリキュラムで教育が施された。この教育は成功をおさめ90年代には識字率が90パーセントを上回っている。他にも下層階級向けの教育機関としては使用人養成学校のような職業訓練校も存在していた。

2016年8月5日金曜日

追加職業パックその1「医師」「看護婦」「精神科医」+おまけ

※現在策定中のためこれらは変更される可能性があります。最終更新日8月6日


◎医師
階級:アッパーミドル
【概要】
 医師は内科、外科をはじめ幾枝にも分岐する専門的医療を生業とする人々を指す。医師は基本的に自宅兼診療所を有しているが、藪医者などであれば話は別であろう。腕利きの開業医たちは、ロンドンはメリルボーンにあるハーレーストリートに居を構えている。しかし、他の地域や郷里へ戻って開業する医師が大半であった。医師の中には船医や軍医なども含まれる。彼らの多くは開業する資金のない者で、資金集めのために仕事をしている場合が多かった。シャーロック・ホームズの相棒J.H.ワトソンもイングランドで診療所を開業する以前は、第二次アフガン戦争に軍医として従軍していた。ちなみに、ごく少数であるが女医も当時存在した。
 19世紀初めは内科医が医師の頂点とされ、次に外科医が位置付けられていた。内科医であることは、ジェントルマンであることを意味していたと言っても過言でない。なお、技能欄にある≪ラテン語≫は主に内科医の技能であった。これは内科医となるためにギリシアのヒポクラテスから18世紀に至るまでの医術書を理解する必要があったためである。外科において、先進的な研究がなされていたのはスコットランドのエディンバラとフランスのパリだった。そのためPCが外科医であるならラテン語をフランス語と入れ替えても問題ない。ヴィクトリア朝後半にはこの両科の不合理な区別に抵抗した医師が増えた。彼らは一般開業医(General Practitioner)と呼ばれ次第に影響力を増していった。ちなみに階級の最下位とされたのが薬剤師で医師がいない地域や低所得者の医療を担っていた。
技能:≪生物学≫≪信用≫≪応急手当≫≪ラテン語≫≪図書館≫≪医学≫≪薬学≫≪心理学≫個人的な関心2つ

◎看護婦
階級:ロワーミドル
【概要】
近代職業看護婦の歴史はヴィクトリア朝中期フローレンス・ナイチンゲールにはじまる。彼女はクリミア戦争(1853年~1856年)に従軍し、傷病兵の看護を行った。1860年にはフローレンス・ナイチンゲール看護学校が聖トーマス病院で設立される。その後各地でこれをモデルにした看護学校が次々に設立された。看護婦はヴィクトリア朝において女性がなることのできた数少ない職業の一つであろう。次第に彼女らは医療現場において無くてはならない存在となっていった。
技能:≪生物学≫≪医学≫≪応急手当≫≪薬学≫≪ほかの言語≫≪精神分析≫≪経理≫≪目星≫個人的な関心1つ

◎精神科医
階級:ミドル、アッパーミドル
【概要】
 精神医学という言葉が生まれたのは19世紀の初頭のことであった。ヴィクトリア朝中期、精神科医は『マッド・ドクター』や『エイリアニスト』と呼称されていた。
 19世紀中期、狂気は遺伝によって引き起こされると考えられていた。当時の医学では、狂気は母親から遺伝しやすく、娘に影響する場合が多いと考えられていた。これはヴィクトリア朝において、女性の多くがヒステリーであったことに由来する。実際に、この時代の5割以上、文献によっては7割の女性がヒステリーを抱えていたとされる。なお、1890年には女性のヒステリーを治療するために、電動バイブレーターが発明され特許を取得している。これは性欲は男性だけのものと考えられ、女性に過度な禁欲主義が浸透していたことが原因ではないかとされている。
 19世紀末期、ウィーンのジークムント・フロイトによって精神分析が確立される。先進的な考えを持つキャラクターであれば、彼と関係があるか、もしくは彼の論文を読んでいるかもしれない。
 この時代の精神病患者の治療法は薬品投与、催眠療法、精神分析であった。また、精神病患者は、人里離れた隔離施設に閉じ込められた。口封じのために、隔離施設に不当に閉じ込められる事例などは通俗小説で時々登場した。
技能:≪医学≫≪ドイツ語≫≪精神分析≫≪心理学≫≪説得≫≪図書館≫≪薬学≫個人的な関心1つ


おまけ:ヴィクトリア朝の病

【19世紀の英国において恐れられた、流行した病気】

マラリア
熱帯の病気と思われがちであるが少なくとも19世紀中ごろまで英国にも独自に存在していた。蚊によって媒介されるためリンカンシャーやケンブリッジシャーの沼地で流行した。下水が整備されたことでマラリアは英国から姿を消すが植民地で罹患する人間はその後も続出した。マラリアに感染した場合、専門的医療を受けられない人々は薬剤師からキニーネを購入していた。

脳卒中
脳卒中の犠牲者は突然倒れ、意識を失いその結果死に至ったり、回復しても麻痺が残ったりする。脳卒中はこの時代高血圧や過労、特に感情の高ぶりと結びつけて考えられていた。

コレラ
ロンドンの下水が未処理でテムズ川へと流出していた時代、コレラは飲み水から感染していた。嘔吐、下痢を主症状とするコレラはアジア由来で1830年代までヨーロッパで発生しなかった。コレラは貧民街での爆発的感染が起きたことから体制の陰謀ではと考える人間までいた。ロンドンでは数度コレラの大流行が発生している。ロンドンでは1854年に猛威を振るった。その後も1866年などにも発生している。島国であるイギリスは19世紀後半はコレラの被害を大きく受けていないが大陸部では時々大流行した。

肺結核
空気や傷口から感染し長時間潜伏の後、体力の「消耗」を引き起こした。この病で目がぎらつき、興奮状態になり、そこから類まれな創作活動が引き起こされることがある。そのためヴィクトリア朝でこの病は芸術的才能や想像性と関係があると一般に考えられた。19世紀にもっともイギリス人を殺した病気であると考えられている。

消化不良
保存状態の悪いものは別として十分に咀嚼しない場合や食べ過ぎで引き起こされた。飽食の時代を表す病気の一つであろう。

チフス
ヒトジラミによって感染する。虚妄、頭痛、発疹、高熱などが起こる。ナポレオンはロシアから撤退の際に多くの兵士をこの病に奪われた。2週間以内に死に至らなければたいていの場合生存した。チフス菌によって発祥する腸チフスという別の病気がある。これはヴィクトリア女王の夫アルバート殿下を若くして死に至らしめた。

黄熱病
日本では野口英世で有名な病である黄熱病は熱帯地方の病である。重度の場合黄疸が起こるためこの名で呼ばれる。その場合は腎不全、肝不全を起こし死に至る。軽度の場合はインフルエンザに似ている。その多くは港湾や船内で発生したため黄熱病患者を乗せた船は黄色い旗を掲げる義務があった。そこからこの時代イエロージャックと渾名されていた。

【病気に付随するいくつかの興味深い事例】
・ヴィクトリア朝の人々は湿気をしばしば病気の要因と考えていた。
・1875年細菌の存在が証明される。それまで空気中の瘴気が伝染の原因と考えられていた。
・19世紀、輸血は何度か試みられたが血液型の概念が存在せず多くは失敗に終わった。
・ヴィクトリア朝においてアヘンチンキは万能薬のように使用されていた。
 これは大人子供問わずであり薬剤師や雑貨屋からかなりの低価格で購入できた。
 もちろん警鐘を鳴らす人間や法的規制も存在したが意味をなさなかった。
・ヴィクトリア時代であっても精神病による減刑は存在していた。
 タイムズ紙の1853年の論説は当時の精神病減刑を考えるうえで興味深い。
  
正気と精神錯乱の境界を画一する一線ほど、かすかにしか定義できないものはなさそうだ......あまりに狭義にしてしまっては意味がない。かといって定義の幅を広げすぎると、人類全体がその網に引っ掛かってしまう。厳密にいうなら、情熱、偏見、悪徳、虚栄に負けるときの我々は皆頭がおかしくなっているのだ。だからと言って、情熱的で偏見を持った虚栄心の強い人間が皆精神病院に閉じ込められるとしたら、誰がその精神病院の鍵を預かればいいのだろう?

2016年5月4日水曜日

現代に残るヴィクトリア朝

 ヴィクトリア朝から100年以上の時が流れていますがその影響は日本にも残っています。今回は現代日本でも見ることのできるヴィクトリア朝の文化を見ていきましょう。

○結婚式
結婚式には多くのヴィクトリア朝のエッセンスを見つけることができます。なんといってもまずはその衣装でしょう。男女ともに衣装はヴィクトリア朝にルーツを持ちます。1840年、ヴィクトリア女王はザクセン=コーブルク=ゴータ家のアルバートと結婚します。それ以前王族の結婚式で女性は銀色の衣装が着用されていました。しかし、ヴィクトリアはレースで美しく装飾された純白のドレスを纏いました。これを人々がこぞって真似て現在に至るわけです。
ヴィクトリアとアルバートの結婚。ちなみにプロポーズしたのは一目惚れしたヴィクトリア。
この日ロンドンの群衆たちは老いも若きも卑しきも貴きも歓喜に包まれた。
さて、男性の衣装に話を移しましょう。現代見かける男性の服装はタキシード、モーニングコート、フロックコートといったところでしょうか。時々フロックコート風の服をタキシードと呼んでいる例も見かけます(嘆かわしいことです)。モーニングコートとフロックコートはヴィクトリア朝で礼服として使用されました。二つの服装は似ていますがモーニングコートは裾が斜めにカットされているのが特徴です。また現在では一概にそうとは言えないのですがフロックコートはダブルブレストでした。一応説明しておくとダブルブレストとはボタンが二列になっているということです。
 タキシードは1870年代のヨーロッパ大陸で喫煙用に用いられたスモーキングという服が起源です。それをプリンス・オブ・ウェールズが取り入れディナージャケットを考案しました。タキシードというのはアメリカのタキシードクラブに由来するものです。イギリスでは現在もディナージャケットと呼ばれています。現在は礼服のタキシードですが、礼服として認められたのは1920年代のことです。

モーニングコート
フロックコート
さて、服装だけではありません。豪華絢爛なウェディングケーキもこの時代から作られるようになりました。日本のウェディングケーキは3段程度の作りですがこれはヴィクトリア朝に由来します。ちなみにイギリスではウェディングケーキは保存の効く素材で作られました。ウェディングケーキは結婚式に参列した人や参列できなかったゆかりのある人に贈られました。ウェディングケーキを枕の下に置いて寝ると未来の夫を見られるという言い伝えもありました。生地が固くクリームが使われなかったからこそできる芸当ですね。また、ヴィクトリア朝ではありませんがハネムーンも1820年代頃に上流階級に広まったものです。
ヴィクトリア女王の娘ヴィクトリアと後のドイツ皇帝フリードリヒ3世の結婚式で供されたウェディングケーキ。
これがきっかけとなりイギリスのウェディングケーキは2~3段となった。
○クリスマスツリー
 クリスマスツリーの発祥はドイツですがヴィクトリア時代に各家庭で飾る風習が出来上がりました。ドイツからやってきたアルバートを歓迎するために女王がツリーを飾りました。これは王室内部のことでしたが1848年にイラストレイテッドロンドンニュースが記事にしました。これを見た上流階級の人々がツリーを飾りはじめ60年代には一般的なことになったようです。
クリスマスツリーを囲む王家の人々
王家は中流階級の人々にとって良い家庭の理想だった。
○バレンタインデー
 バレンタインデーにチョコレートを意中の相手に渡す風習については様々な説があります。門外漢には理解が及ばないのでヴィクトリア朝を起源とする説もあるということを紹介します。
 1868年チョコレート製造者リチャード・キャドバリーは美しく装飾されたチョコレート箱を作ります。
これはバレンタインデー用であったとかなかったとか様々な説があります。美しいデザインの箱は贈答用として人気を博し食べ終わった後も小物入れに利用されました。精巧なチョコレート箱はヴィクトリア朝末期には特別な贈り物と考えられるようになりました。
キャドバリーのハート形のチョコレートボックス
なかなかぼんやりとした話しかできず申し訳ありません。しかし、ヴィクトリア朝ではバレンタインデーには他にも送るものがありました。それはバレンタインカードです。これは男女関係なく大切な人に贈られました。カードは匿名で書かれていました。そのため、誰からであるか、本気であるか見極める必要が人々にはあったのです。
19世紀後半のバレンタインカード
to my valentineは決まり文句


記事を作成して思いましたがどうもリア充御用達イベントが多いですね...

2016年4月27日水曜日

ヴィクトリア朝前史

 まずはヴィクトリア朝に至るまでの歴史をさらりと振り返ってみましょう。ヴィクトリア女王が生まれるおよそ100年前の1714年から簡単に紹介していこうと思います。

ジョージ1世(1714~1727)
彼はイギリスの政治に関心がなく政治を内閣に一任した。これによりイギリスの立憲君主制が形成されていく。
※以後人物説明文のカッコ内の年数は在位期間。
1714年ステュアート朝が断絶し、ハノーヴァー選帝侯ゲオルグが国王として招かれます。ハノーヴァー選帝侯とは神聖ローマ帝国(おおよそ現在のドイツ)の特権的諸侯です。ここに現在の王家ウィンザー家にまで続くハノーヴァー朝が成立します。

 ゲオルグはジョージ1世として即位しましたがドイツ人ですから英語は得意でありませんでした。また、彼にとっては祖国ハノーヴァーのほうが大切でしたし、英国の政治事情も分かりません。そのため彼は英国の政治を議会に委ねることにしたのです。こうして「王は君臨すれども統治せず」と形容される英国の議院内閣制が成立していきました。

ジョージ3世(1760~1820)
アメリカ独立戦争、フランス革命の激動と身内のスキャンダルで彼は精神を病んだ。
さて、時間を飛ばし1760年、この年3代目のハノーヴァー朝君主ジョージ3世が即位します。彼は前代までと違い英国生まれ英国育ちであったため政治に積極的に関与しました。この頃英国はフレンチ・インディアン戦争によって財政に危機的打撃を受けていました。そのため政府はアメリカ植民地の課税を強化していきます。無論アメリカでは本国への感情が悪化し、1775年ついにアメリカ独立戦争がはじまります。周知の通りこの戦争によってアメリカ植民地は独立しアメリカ合衆国が建国されます。このアメリカ独立戦争はフランス革命の引き金の一つともなりました。フランス革命に続くナポレオン戦争は言うまでもありません。

 ジョージ3世を悩ませたのはこれらの政治上の理由だけではありません。彼の身内でスキャンダラスな事件が多発したのです。王太子(後のジョージ4世)は博打好きで莫大な借金を抱える問題児でした。次男は賄賂を受け取っていたことが発覚し陸軍最高司令官の地位を失います。これらは産声を上げたばかりのメディアにとって格好の標的でした。華美を嫌い家庭を愛したジョージ3世にとってこのようなことは耐え難いことだったのでしょう。もともと神経が繊細であったジョージ3世は1811年に正気を失ってしまいます。

ジョージ4世(1820~1830)
イングランドでの評判は悪かったがキルトを着用したことでスコットランドの臣民の信頼を勝ち得た。
摂政王太子としての彼の名はリージェンツストリートやリージェンツパークとして残っている
執務をこなせなくなったジョージ3世に代わり王太子が摂政として国王の代理となります。1811年から1820年まで続く摂政王太子による統治を「摂政時代」と呼びます。王太子がジョージ4世として即位したとき王室の権威は地に落ちていました。彼は妃を極端に嫌い、戴冠式に妃を出席させないことにしていました。戴冠式へ向かう彼に群衆は「お前さんの女房はどこだね?」と罵声を浴びせたとされます。
 ちなみに彼がスコットランドで民族衣装のキルトを着たところ爆発的な人気を得ることができ、「ジョージ王は我ら氏族の総代表である。」とスコットランドの人々からの信頼を得ることに成功します。現在でも王家の人間がスコットランドで過ごす際はキルトが着用されています。ちなみに彼は記録上では初めてのフリーメイソンの英国王です。
 ヴィクトリアは王室の権威が失墜していた時期を目の当たりにしていました。これはヴィクトリア朝が過度に道徳的な社会となった理由の一つと考えられています。

ウィリアム4世(1830~1837)
ヴィクトリアにとっては伯父にあたる人物。「船乗り王」と親しみを込めて呼ばれた。
ジョージ4世の跡を継いで王になったのは当時65歳のウィリアム4世でした。彼は付き人なしでロンドンの町へ出かけ国民と握手したり気さくに話しかけたりするような人物で青年期に海軍で勤務していたことから「船乗り王」と親しみを込めて呼ばれていました。彼の治世において奴隷制の廃止が行われたり新救貧法の制定がなされました。他にも第一次選挙法改正が為されこれをきっかけに議会制度が完成していきます。

ヴィクトリア(1837~1901)
英国の最も輝かしい時代を統治した女王。
彼女にちなんだ地名は世界のいたるところにあり、世界中の臣民から「帝国の母」と慕われることになった。

 そして1837年6月20日ウィリアム4世が身罷られます。ついに我らが女王、アレクサンドリナ・ヴィクトリアが即位します。彼女はその日このような走り書きの日記を残しています。

この場に置かれたということは神意なのだから、国のために最善を尽くし自分の義務を果たそう。私はとても若く、全てとはいえないまでも多くのことに経験がないけれど、適切で正しいことをするにあたり、私が持っている以上の本物の善意や本物の願望を以ってする人はほとんどいないことを確信している。

ケンジントン宮殿からセント・ジェームズ宮殿へ向かう女王を臣民は歓声の声で迎えました。若き女王は感動で涙が溢れ、それを見た臣民の心は愛情と忠誠心で満たされたとのことです。そうして英国の輝かしき時代は幕を挙げたのでした。

2016年4月25日月曜日

使用人の種類

 先日の投稿『二つの国民、社会階級と収入』http://fromvictorianage.blogspot.jp/2016/04/blog-post_42.htmlの終わりにかけて使用人の話題とその職種が幾例か登場しました。多くの人々が夢に描く大きな屋敷と忠実な使用人。今回はその使用人の種類を一部紹介していきたいと思います。

 その前に簡単に使用人の分類について説明します。まず使用人は男女で分類されます。従僕(man servant)と女中(maid servant)です。そしてその中でも役職の違いにより上級、下級に区別されました。使用人の世界であってもそこには職種によるヒエラルキーが存在していたのです。前にも述べました通り男性使用人を雇用すると多額の税金を支払うことになります。しかも、この時代男性使用人は女性使用人の倍ほどの給与を支払われていました。男性使用人は贅沢であるということも念頭に入れて読んでもらえるといいかと思います。

○従僕(man servant)

ルコンフィールド男爵の邸宅。ペットワースハウスの男性使用人たち(1870年頃)
・男性の上級使用人
ランド・スチュワード...家令とも訳される。最上位の使用人。領地の管理を行った。
ハウス・スチュワード...こちらも家令。館の管理、使用人の解雇を行った。
バトラー...執事。家令に次ぐ地位。銀器やワインの管理、従僕の統括を行った。
ヴァレット...近侍。主人の身の回りの世話や給仕、付き添いをした。執事と兼職することも。
クック、シェフ...男性の料理長。フランス人シェフを雇うことは一種のステータスだった。

・男性の下級使用人
フットマン...下僕。訪問客の応対、世話、給仕や執事の補助をした。恵まれた容姿が求められた。
コーチマン...御者。屋外使用人の中では最高位。厩の管理を行った。
グルーム..馬丁。馬の世話を行った。
ショーファー...自動車の運転手。エドワード時代(1901年~)から姿を現した。
ガーデナー...庭師。庭園の手入れの他訪問客の案内をすることもあったため礼儀が求められた。
ページボーイ...フットマンの見習いとして軽い雑用や使い走りをした少年。
ホールボーイ...力仕事や雑用などの下働きを行った少年。

○女中(maid servant)
グレヴィル家の邸宅。ビドルスデンパークの女中たち。


・女性の上級使用人
ハウスキーパー...家政婦長。女性使用人の最高位。女中の統括。家の運営を行った。
クック...炊婦。食材の管理、注文、厨房の総括をした。
ガヴァネス...住み込み家庭教師。中流階級出身で子供の教育、しつけを担当した。
ナーサリーガヴァネス...8歳までの子供の教育、しつけを担当した。
ナニー...乳母。母親代わりに子供の世話をした。
レディーズメイド...侍女。女主人の世話や付き添いをした。フランス人侍女が人気だった。
シャペロン...若い未婚の女性のお目付け役。礼儀作法の監督をした。

・女性の下級使用人
ジェネラルメイド...雑用を含む家事全般を行った。
メイド・オブ・オールワーク...一家が雇用するただ一人の女中のこと。すべての役割をこなした。
チェンバーメイド...寝室を担当した。その他暖炉の管理なども仕事だった。
パーラーメイド...応接間を担当し掃除、訪問客の応対を行った。良い容姿が求められた。
キッチンメイド...クックの助手。
スカラリーメイド...キッチンメイドの助手として洗い物、掃除食材の下ごしらえを行った。
ランドリーメイド...衣類、寝具を洗濯しアイロンをかけたりそれらの修繕を行った。

最後にこれらの使用人たちの純粋な給与を紹介していきます。「純粋な」という言葉を使用したのはそれぞれの仕事には役得が存在しましたし、他にも何種類かの給付がされていたからです。(例えば一日につき1パイントのビール代の手当など)

○男性使用人
バトラー...50~80£
シェフ...100~150£
フットマン...20£程度
コーチマン...25~60£

○女性使用人
ハウスキーパー...30~50£
各種メイド...10~15£

これらは1880年に発行された「使用人実用ガイド」が提案している各種使用人の給与です。実際のところ使用人の雇用形態や待遇は家ごとに大きく違っていました。

2016年4月24日日曜日

二つの国民、社会階級と収入

 ヴィクトリア朝が厳密な階級社会であることは皆さんご存知と思われます。爵位の有無だけでなく、職業や収入によっても階級が形作られました。階級の差はこの時代の人々の間に超えることのできない壁として横たわっていました。この時代の代表的政治家、ベンジャミン・ディズレーリは『二つの国民』とこのことを形容しました。今回は社会的階級や階級に見合った収入について解説できればと思います。
救貧院での食事の様子。救貧院では粗末で少量の食事にもかかわらず過酷な労働を強いられていた。
オリバー・ツイスト少年の「もう一杯ください」という哀願が思い起こされる。
上流階級の人々の晩餐の様子。贅の限りを尽くしたコース料理が何皿も用意された。
まず、イギリスには6つの社会階級があるといわれます。その階級とその階級に値する職業を紹介していきます。カッコ内はガスライトでの階級です。
※もっと大雑把であったり細かかったりする場合もあります。

アッパー(上流):貴族、準貴族、ジェントリ
アッパーミドル(上流~中流):弁護士、内科医、将校など
ミドル(中流):学者、中小経営者、専門職(職人)など
ローワーミドル(中流~下層):教師、兵士、警官など
ローワー(下層):労働者、使用人など
ロウイスト:売春婦、物乞いなど

 ガスライトにおいてはロウイストを除いた階級が設定されていました。ちなみにガスライトの収入ロールは探索のしやすさから本来より裕福になるようにされていました。本来の収入に照らし合わせるときっとこのようなロールになると思われます。ローワーで(1d4+2)*20£、ローワーミドルで(1d10+3)*25£、ミドルで(2d6+6)*50£アッパーミドル以降は収入の平均値というものが分からないのでどうしようもありません。事業に成功し巨万の富を手に入れたものの出自から上流階級として扱われない人もいましたし、上流階級であったものの屋敷を手放さざるを得ないほど零落した人物もいるからです。

さて、ここからは収入とそれに見合った使用人の数について紹介していきましょう。
ハードウィック伯爵の邸宅エルディグの使用人たち。服装によって職種が違った。
この写真に映っていないどちらかといえば下級の使用人たちもたくさんいただろう。
ヴィクトリア朝において使用人を雇うことは日常的なありふれたものでした。20世紀の初め英国の80万世帯で使用人が雇われていたと記録されています。階級的に言うならローワーミドル程度の収入から使用人を雇うことは可能でした。男性使用人は女性使用人に比べ税金が重いため女性が多く雇われる傾向にありました。

収入100£程度...メイド・オブ・オールワークスを一人
  300£程度...コック、ハウスメイド、ナニーの3人程度、男性使用人を雇う余裕はない。
  1000£程度...フットマンなど男性使用人が雇われるようになる。メイドは複数になった。
  5000£程度...執事などの上級職が加わる。ほぼ全種の使用人を雇用できた。
※ビートン夫人を参考としたためヴィクトリア朝末期では少々様相が違ったかもしれません。
使用人の様々な種類が出てきましたが、説明していると長くなるので次の機会に...

英国の住居

 ガスライトシナリオにおいて英国の人々の家を描写することは多いかと思われます。外国、あまつさえ時代も違うヴィクトリア朝の家がどうであったか想像するのは難しいことです。そんなわけで英国の人々の家を紹介していきます。

 田舎の貧しい人々は藁ぶきかスレート(薄い石の板)の小屋に住んでいました。最貧の人々は大きな部屋が一つあるのみで少し余裕があれば台所と寝室が別につきました。さらに立派になると4部屋あったり2階まであることもありました。
イングランドの茅葺屋根のコテージ(トマス・ハーディの絵画)
イーストエンドのような地域に住むロンドンの貧民たちも一部屋だけでどうにか暮らしていました。彼らはそこに折り重なるようにして過ごしていました。もちろん調理もその部屋で行われ小さな暖炉でそのような人々は調理をしました。しかしこれはまだましで部屋を持つことができず階段や踊り場で寝るような人間もいました。ぶら下がり宿という1ペニーで紐にもたれかかって寝ることのできる施設で暮らす人もいます。労働者でもある程度収入があれば郊外に4部屋程度の小さな家を構えることができたでしょう。その場合は大抵、寝室二つに居間と台所という構成となります。
奥まった場所で身を寄せ合う宿のない子供たち。
写真は1890年ニューヨークのものであるがロンドンにもこのような子供たちがたくさんいた。
裕福な人々は部屋の区分を細かくしていきました。家族が使う部屋と来客が使う部屋、それに使用人の使う部屋...両親の部屋と子供の部屋、男性使用人の部屋と女性使用人の部屋といった具合です。

 裕福な家庭の家族の使うスペースは主に3つの空間から成り立っています。私室(chamber)、仕事部屋(workroom)、居間(sitting room)です。
 私室はほとんど寝室と同義で化粧室(お手洗いではない)がついていることもありました。幼児にはナースリーという部屋があり、成長すると両親の部屋の上に部屋が与えられました。
 次に仕事部屋についてです。夫が手紙を書いたり書類を書いたりする部屋として図書室(library)や書斎(study)があります。妻には同じ目的のブドワールという部屋があり、子供にも勉強部屋(school room)がありました。
マンスフィールド伯爵がロンドン郊外ハムステッドヒースにもつケンウッド・ハウス
他の家々が目にかすむほどの広さであるがこれを凌ぐようなカントリーハウスは無数にある。
裕福な人々の邸宅にはもっと様々な部屋がありましたが長くなるのでまたの機会に...




2016年4月23日土曜日

紳士淑女たるもの

紳士淑女と聞いて粗野な人間を思い浮かべる方はいないと思われます。社交界が戦場である上流階級の人間にとってエチケットは武器と言って差支えないでしょう。エチケットはガスライトにおいては使用人の職業技能欄に何の説明もなく記載されています。(これが上流階級の職業の職業技能になっていないのは大きな謎ではありますが...)

...というわけでこの機にまず紳士の基本的なエチケットをご紹介したいと思います。

1.馬に乗ったり通りを歩いたりするときは、必ず女性に道の端を譲る。
  (この時代道の中央寄りは馬の排泄物等で汚れていることが多かった。)
2.階段を上るときは女性の前を歩く。降りるときは女性の後ろをついていく。
3.馬車に乗るとき男性は後ろ向きの席をとる。家族でない場合は隣に腰かけてはならない。
4.馬車を降りる際はまず自分が先に降り手を取って降ろしてやる。
5.演奏会などにおいてはまず自分が先に入り彼女の席を見つける。
6.同じ建物内で女性か年配の男性と出くわしたときは必ず帽子をとる。
7.初対面の場合男性が女性より先に紹介される。
  (人を紹介する場合初めに地位の劣ったものから紹介されていた。)
8.男性は女性の前でタバコを吸ってはならない。
9.顔見知り程度の女性と出会ったときは彼女が気づき会釈してくれるまで挨拶してはならない。
  また挨拶は遠く離れた場所から帽子を持ち上げるにとどまる。
  この場合女性が話しかけてくれるまで男性は女性と話してはならない。
10.親しい女性と出会い彼女が話したい様子であったら彼女の歩くほうへと向きを変える。
  女性を立たせたままにしておくようなことがあってはならない。

馬車だけでなく列車であっても車であっても男性は女性が降車する手伝いをすべきである


次に淑女のエチケットをこれもまた基本的なものをご紹介します。

1.女性は朝早く教会か公園へ歩いていく場合を除いて一人で歩いてはならない。
  必ず別の女性か男性、使用人と一緒である必要がある。
2.仕事上の相談を除き女性は男性宅を一人で訪問してはならない。
3.女性は午前中ダイヤモンドと真珠を身に着けてははならない。
4.舞踏会において同じパートナーと3回以上踊ってはならない。
5.女性は社交場で参加者に気づかなかったフリをしてはならない。
  交際を続けたくない男性がしつこく色目を使ってくる場合のみ無視が許される。
男性にとって女性と知り合うことは光栄なことである。

2016年3月14日月曜日

ロンドンの霧


 前にもお話ししましたように、霧の都ロンドンと呼ばれるほどロンドンは霧に包まれていました。今回はその原因や、様子についてご説明していきましょう。ルール的な説明はクトゥルフ・バイ・ガスライトの62項を参照のこと。

 書物によってブレがありますが、冬場となると霧が酷くなると言われています。11月ごろとなると霧は中心部から4マイル(約6.5km)ほどまで広がりました。この11月から1月の霧は黄色く市中を包んだため昼間でも屋内では明かりをともしたそうです。特に1月は酷かったようで「1月、ああ呪われたる霧の月よ」という表現を見かけたことがあります。この霧は人々に「頭の不快感」や「肺の痛み」をもたらしました。現在の北京市などを想像していただけるとなんとなく掴めるかもしれません。

 この霧によって朝は純白であった婦人のショールが灰色になっていただとか、手を握っていたのにもかかわらず相手の顔が見えなかったと書き残されています。霧で前後不覚となり誤ってテムズ川に落ち溺れてしまう事件などもあったとか。この時代に黒めの服装が増えたのはこの大気が原因の一つとも考えられています。

 冬場の濃い霧の原因の一つとして石炭ストーブがあります。石炭ストーブは部屋を温めたり、朝食を作るために使われました。ロンドン中で使われた何千もの石炭ストーブから立ち上る煙で空は真っ黒になったそうです。もちろん工場から排出される煙なども大きな原因の一つでしょう。

 霧はヴィクトリア朝の雰囲気を伝えるために大変重要なファクターです。この霧は探索者を苦しめたり、思わぬところで助けてくれるかもしれません。

2016年3月4日金曜日

ヴィクトリア朝的アイテム

今回はシナリオに出すことで探索やRPの助けになるアイテムを紹介しようかと思います。KPはこれらを登場させることでヴィクトリア朝の雰囲気を醸し出しやすくなるのではないでしょうか。手始めに二つほど紹介して、思いつき次第また記事にしていきたいと思います。

〇バーク貴族年鑑(Burke's Peerage)
1826年に出版された分厚い年鑑には英国の名士たちがずらりと並んでいます。アルファベット順に貴族、準貴族、紳士が網羅され、家柄や爵位、称号を調べることができます。上流階級に属する人々には必携の書といったところでしょうか。似たような本としてデブレット貴族年鑑やゴータ貴族年鑑があります。デブレット貴族年鑑はシャーロック・ホームズが参照している本でもあります。またゴーダ貴族年鑑はヨーロッパの王族と上級貴族がまとめられています。これらはシナリオで上流社会の人物が出たときに利用しやすい情報源の一つでしょう。

バーク貴族年鑑


〇スキットル(skittles)
アルコール度数の高いウイスキーなどの蒸留酒を入れておくための金属製の水筒です。ヴィクトリア朝では銀製やピューター製のものが用いられていました。もちろん銀製は効果で裕福な人物でなければ手に入れることはできないでしょう。ピューターは柔らかいため尻ポケットに入れた際つぶれてしまう粗悪品などもありました。尻ポケットに入れておくことからHip flaskとも呼ばれます。ちなみに女性はペチコートやガーターに収納していたそうです。小説でよく見かける気付けとしてブランデーを飲ませるという行為がどこにいてもできます。SAN値減少の際などにRPとして利用してみてはいかがでしょうか。
精巧な細工の為された銀製のスキットル
ヴィクトリア朝ではこのような丸型も使用された。



2016年2月23日火曜日

ヴィクトリア朝とは

そもそもヴィクトリア朝とはヴィクトリア女王の治世期間を指します。女王の治世は1837年から1901年までの約63年に及びます。この60年の間、英国は二つとない大帝国を築き上げ、七つの海を支配し世界に君臨しました。

産業革命と世界中にまたがる植民地は英国に莫大な富をもたらしました。その豊かさは英国文化の黄金期をもたらしました。シャーロック・ホームズやドラキュラ伯爵といったキャラクターが創造され、シルクハットにステッキ、優美なマナーを身に着けた英国紳士、また彼らに使える忠実な使用人が形作られたのはこの時代のことでした。ビッグベンやウェストミンスター宮殿が建造されロンドンは世界の中心として燦然と輝きました。英国はこの時代に作られたと言っても過言はありません。また、この時代の英国における文化は現代の生活にも大きな影響を与えているのです。

しかし、光が強ければ当然、闇は深くなります。工場が吐き出す煤煙は霧となりロンドンを包んでいました。「霧の都」というロンドンの別名はロマンチックなものではありませんでした。1900年から1902年までロンドンに留学していた夏目漱石の日記にはこうあります。

倫敦の街を散歩して試みに痰を吐きて見よ真黒なる塊の出るに驚くべし。
何百万の市民は此煤煙と此塵埃を吸収して毎日彼らの肺臓を染めつつあるなり。
我ながら鼻をかみ痰するときは気の引けるほど気味悪きなり。

事実、多くの人々が喘息や肺の痛み、頭の不快感に悩まされていたとあります。1873年のある週では700人を超える人々がロンドン市内で死亡し、品評会に出された牛がすべて窒息死したと伝えられています。公害問題は20世紀まで尾を引き1952年には1万人もの人を死に至らしめました。

経済も植民地や労働者の搾取を基盤としたもので、恩恵を受けたのは一部の人々でした。広がる経済格差を目の当たりにしたマルクスは資本論をロンドンで書き上げました。

ヴィクトリア朝の社会は現代と同じく複雑で奇妙です。多くの矛盾を抱えた社会で人々は悲嘆苦悩しながらも前へ進んでいきました。それらを知ることはシナリオやロールプレイに深みを与えてくれると考えています。

2016年2月22日月曜日

ごあいさつ

本ブログにお越しいただきありがとうございます。

本ブログではヴィクトリア朝英国を備忘録がてらまとめていきます。

一口にヴィクトリア朝といっても63年にも及ぶ長い時代です。

そのためこのブログでは1870年代以降に焦点を当てていきたいと存じます。

また、クトゥルフ神話TRPGで近代英国を舞台とする方の支援もできたらと考えています。

といっても当方、勉強中でありますから誤った情報を記載してしまうかもしれません。

誤りに気が付かれましたら指摘していただけると幸いであります。