ジョージ1世(1714~1727) 彼はイギリスの政治に関心がなく政治を内閣に一任した。これによりイギリスの立憲君主制が形成されていく。 ※以後人物説明文のカッコ内の年数は在位期間。 |
ゲオルグはジョージ1世として即位しましたがドイツ人ですから英語は得意でありませんでした。また、彼にとっては祖国ハノーヴァーのほうが大切でしたし、英国の政治事情も分かりません。そのため彼は英国の政治を議会に委ねることにしたのです。こうして「王は君臨すれども統治せず」と形容される英国の議院内閣制が成立していきました。
ジョージ3世(1760~1820) アメリカ独立戦争、フランス革命の激動と身内のスキャンダルで彼は精神を病んだ。 |
ジョージ3世を悩ませたのはこれらの政治上の理由だけではありません。彼の身内でスキャンダラスな事件が多発したのです。王太子(後のジョージ4世)は博打好きで莫大な借金を抱える問題児でした。次男は賄賂を受け取っていたことが発覚し陸軍最高司令官の地位を失います。これらは産声を上げたばかりのメディアにとって格好の標的でした。華美を嫌い家庭を愛したジョージ3世にとってこのようなことは耐え難いことだったのでしょう。もともと神経が繊細であったジョージ3世は1811年に正気を失ってしまいます。
ジョージ4世(1820~1830) イングランドでの評判は悪かったがキルトを着用したことでスコットランドの臣民の信頼を勝ち得た。 摂政王太子としての彼の名はリージェンツストリートやリージェンツパークとして残っている |
ちなみに彼がスコットランドで民族衣装のキルトを着たところ爆発的な人気を得ることができ、「ジョージ王は我ら氏族の総代表である。」とスコットランドの人々からの信頼を得ることに成功します。現在でも王家の人間がスコットランドで過ごす際はキルトが着用されています。ちなみに彼は記録上では初めてのフリーメイソンの英国王です。
ヴィクトリアは王室の権威が失墜していた時期を目の当たりにしていました。これはヴィクトリア朝が過度に道徳的な社会となった理由の一つと考えられています。
ウィリアム4世(1830~1837) ヴィクトリアにとっては伯父にあたる人物。「船乗り王」と親しみを込めて呼ばれた。 |
ヴィクトリア(1837~1901) 英国の最も輝かしい時代を統治した女王。 彼女にちなんだ地名は世界のいたるところにあり、世界中の臣民から「帝国の母」と慕われることになった。 |
そして1837年6月20日ウィリアム4世が身罷られます。ついに我らが女王、アレクサンドリナ・ヴィクトリアが即位します。彼女はその日このような走り書きの日記を残しています。
この場に置かれたということは神意なのだから、国のために最善を尽くし自分の義務を果たそう。私はとても若く、全てとはいえないまでも多くのことに経験がないけれど、適切で正しいことをするにあたり、私が持っている以上の本物の善意や本物の願望を以ってする人はほとんどいないことを確信している。
ケンジントン宮殿からセント・ジェームズ宮殿へ向かう女王を臣民は歓声の声で迎えました。若き女王は感動で涙が溢れ、それを見た臣民の心は愛情と忠誠心で満たされたとのことです。そうして英国の輝かしき時代は幕を挙げたのでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿